十条村
じゆうじようむら
[現在地名]美里町北十条・南十条
北東流する身馴川に沿った南岸の水田地帯で、対岸は下児玉村。身馴川に接していながら水利が不便なため、天水を利用することが多い。天正八年(一五八〇)一二月一日、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦は各所で上野の武田方への塩荷を押えることを長谷部備前守に命じているが、深谷領分の「十条」などは除外されている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。同一九年五月、安藤彦四郎(直次)は「十条郷之内」で一一三石余を宛行われ、元和元年(一六一五)八月には大森半七(好長)が十条村で三〇〇石を、寛永二年(一六二五)七月には同じく好長が十条村で三三〇石を、同年一二月には鎮目市左衛門(惟明)が「十条村之内」で五〇〇石を徳川氏から宛行われた(記録御用所本古文書)。
十条村
じゆうじようむら
[現在地名]北区上十条一―五丁目・中十条一―四丁目・十条台一―二丁目・十条仲原一―四丁目・東十条一―六丁目・王子本町三丁目
稲付村の南にあり、東は神谷村、西は下板橋村(現板橋区)。古来は王子村と一村であったが、豊島清元が熊野権現を祀る際、当地に十条峠などの名称があったので、それを村名としたと伝える。日光御成道沿いにあり、また南北に鎌倉から奥州への古海道跡があったという(風土記稿)。村名は重条とも記される。文安五年(一四四八)一一月日の熊野神領豊島年貢目録(熊野那智大社文書)に「八百廿五文 十条 作人平部」「八百廿五文 十条郷 作人三平」とみえ、紀伊国熊野那智社に年貢を負担する人々のなかに当地の居住者がいた。
十条村
じゆうじようむら
[現在地名]千代田町大字黒井字十条
城原川と犬童川の中間部、長崎街道の西方に位置する。正保絵図に村名がみえる。古代条里制の十条の線にあり、後これを村名としたものであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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