王子村(読み)おうじむら

日本歴史地名大系 「王子村」の解説

王子村
おうじむら

[現在地名]小野市王子町

小野町の北に位置する。加古川左岸の標高約三〇メートルの河岸段丘面に集落を形成し、東の段丘面に近接する。宮山みややまに熊野神社があり、東部におお池が広がる。地名は熊野神社の北東にある王塚おうづか古墳が、かつて若王子塚とよばれていたことによるという(延享五年「王子権現記」西尾家文書)。正安元年(一二九九)七月日の「下公文殿へ種物まいらせたる事、無先例候」との大部庄下方百姓等連署起請文(東大寺文書)に「殊ニハ熊野三所、当庄王子大社」とあり、中世は奈良東大寺領大部おおべ庄に含まれた。永享六年(一四三四)八月日の大部庄公文恒清・伊王名夏地子納帳(同文書)には、王子を付した一七人の百姓と常楽坊がみえるように、室町時代には大部庄内の地名としてたびたび帳面類にみえ、集落をなしていた。


王子村
おうじむら

[現在地名]北区王子一―六丁目・王子本町おうじほんちよう一―三丁目・十条台じゆうじようだい一丁目・東十条ひがしじゆうじよう三丁目・岸町きしまち一―二丁目

十条村の南にあり、南は王子川(石神井川)を隔て滝野川たきのがわ村。荒川の右岸に臨む地であったので元来は岸村といったが、紀州熊野の若一王子にやくいちおうじ(現王子神社)を勧請してから王子村に改めたと伝える(風土記稿)。日光御成道が南東から北西に通る。田園簿には王子村とあり、田一八八石余・畑一三九石余。内訳は王子権現領二〇〇石・江戸芝愛宕権現領一一〇石余・浅草幸龍こうりゆう寺領一八石余。王子権現領は天正一九年(一五九一)、幸龍寺領は寛永二年(一六二五)、芝愛宕権現領は同一三年に与えられており、いずれも朱印地で(寛文朱印留)、幕末まで変わらない(旧高旧領取調帳)


王子村
おうじむら

[現在地名]貝塚市王子

見出みで川右岸に沿って、平野部から内陸丘陵台地に至る地を村域とする日根郡の村で、北東隣は地蔵堂じぞうどう村。集落は西方平野部に位置し、貝塚寺内から南東行して紀州粉河こかわ方面に至る粉河街道と、地蔵堂村から来た熊野街道が、集落南西部で交差。丘陵地域に上新田かみしんでん下新田しもしんでんの二つの小名がある。「後鳥羽院熊野御幸記」によると建仁元年(一二〇一)一〇月七日、熊野詣の院一行は当村の吉祥音きつしようおん(吉祥園寺)で昼食をとり、胡沐こぎ新王子に参詣している。


王子村
おうじむら

[現在地名]亀岡市しの町王子

京都からの丹波の入口にあたり、おいさか峠で山城国沓掛くつかけ(現京都市西京区)と接する。京街道(山陰道)は老ノ坂峠を越え、王子村三軒屋さんげんやを経て王子神社の前へ出る。村の東を大枝おおえ山から流れ出したノ川が流れ、篠村の東を経て山本やまもと村から保津ほづ(大堰川)へ注ぐ。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では高三三一・四三石、戸数四八、亀山藩領。山が近く山田畠があり、五穀は上品であった。

江戸時代は老ノ坂峠を越える旅人の往来も多く、峠は町並のように家が連なり、峠町の戸数は二七軒、茶屋・商家・農家が入り交じり、山畑には李などを栽培していた(桑下漫録)


王子村
おうじむら

[現在地名]和泉市王子町・鶴山台つるやまだい四丁目・葛の葉くずのは町・富秋とみあき町・池上いけがみ町・あさひ

尾井おのい村の南東に位置し、熊野街道(小栗街道)が通る。地名は熊野街道沿いに祀られた王子があったことによる。この王子は「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月六日条に篠田しのだ王子とみえ、右行間に「先於松下、有御禊、宗行為御使、参シノタ明神云々」とある。「シノタ明神」は当地の現ひじり神社のこと。中尾なかお寺も当地にあった寺で「永源師檀紀年録」の宝徳二年(一四五〇)の記事に篠田中尾寺とみえる。


王子村
おうじむら

[現在地名]津名町王子

志筑浜しづきはま村の北にある。東は山を越え大谷おおたに村。王子川(宝珠川)が南東流する。慶長一六年(一六一一)三月の淡路国上郡志筑庄玉子村御検地帳(砂川家文書)では高三〇六石余、田畠数合二八町五反余。同帳および元和元年(一六一五)の下札(洲本市立文化史料館蔵)の高と正保国絵図の高は同じく三〇六石余。延宝四年(一六七六)の品々帳(正井家文書)では高五〇三石余。天保郷帳では高四〇〇石余。王子組に属し、反別戸数取調書では反別四二町一反余、高六三九石余、うち蔵入高四三五石余、二〇四石余が蜂須賀隼人など五名の給知。


王子村
おうじむら

[現在地名]香我美町徳王子とくおうじ

岸本きしもと村の北にある農村。「土佐州郡志」は「縦十五町許横六町許、東西北有山、南乃田隴沿山谷各家焉」と記す。村名は、「続日本紀」天平宝字八年(七六四)一〇月九日条にみえる、淳仁天皇の弟池田親王が土佐に配流されたことにちなみ、その折池田親王がこの地に住んだからという(香美郡町村誌)

天正一五年(一五八七)の大忍庄地検帳に村名がみえ、近世の王子村には同地検帳の刈屋かりや村・三又瀬みつまたせ村・王子村・ヲ田村などの小村が含まれる。


王子村
おうじむら

[現在地名]明石市王子一―二丁目・北王子町きたおうじちよう南王子町みなみおうじちよう西新町にししんまち一―三丁目

明石城のすぐ西、明石川河口の西岸にある。山陽道沿いに発展した西新町を抱えた村で、三木街道、高砂道も出会うなど陸上交通の要所に位置した。南は船上ふなげ村、北は吉田よしだ(現神戸市西区)、西は和坂かにがさか村。中里組に所属。慶長国絵図には王子町と記載され宿駅の印がある。正保郷帳では田高二一七石余・畑高三四石余、旧高旧領取調帳では高二七一石余。村名は市辺之忍歯王の皇子意王・袁王が縮見しじみ屯倉に隠栖していたとき当地をよく訪れ、のちに二王子が顕宗天皇・仁賢天皇として即位したことを喜び村民が村名としたと伝える(明石名勝古事談)。古代山陽道は大路であったことから、大路に王子の字があてられたと考えられている。


王子村
おうじむら

[現在地名]柵原町王子

飯岡ゆうか村の東、吉野よしの川右岸に位置し、倉敷くらしき往来が通る。対岸東は吉野川川湊の福本ふくもと(現英田郡英田町)。正保郷帳に村名がみえ、田はなく、畑六〇石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二六石余・開高五石余、村位は上。「東作誌」によれば毛付高五七石余、家数二四、男六〇・女四三。津山藩森氏断絶後は幕府領、寛延元年(一七四八)播磨三日月藩預、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政一一年(一七九九)播磨龍野藩預、明治元年(一八六八)鶴田藩領(美作国郷村支配記)。「東作誌」には高瀬舟五とあり、安政六年(一八五九)・文久四年(一八六四)の調べ(「美濃屋史料」遠藤文書)では福本の美濃屋の物資を運んだ船頭数は一。


王子村
おうじむら

[現在地名]加西市王子町

戸田井とたい村の東に位置し、下里しもさと川を挟んで北東は牛居うしい村。村名は当地に鎮座する王子神社(もと若一王子大権現)によるという。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「わふし村」四四石余とみえる。慶長国絵図には「をうぢ村」とある。江戸時代の領主の変遷は享保五年(一七二〇)幕府領となるまでは東南ひがしなん村と同じ。寛保元年(一七四一)姫路藩領となり幕末に至る(寛延四年「酒井忠恭領知目録」酒井家史料、旧高旧領取調帳など)。正保郷帳によると田方一三六石余・畑方六石余。元禄郷帳では高二一七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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