千塚村(読み)ちづかむら

日本歴史地名大系 「千塚村」の解説

千塚村
ちづかむら

[現在地名]甲府市千塚一―五丁目・塩部しおべ四丁目・富士見ふじみ一―二丁目・音羽町おとわちよう湯村ゆむら一―三丁目・山宮町やまみやちよう

塩部村の西にある。北西から南東に流れるあら川を挟み、対岸南は巨摩郡荒川あらかわ村、西は同郡島上条しまかみじよう(現敷島町)。東を湯川が南東流する。地内で東西に通る関屋せきや往還と南北に通る御岳みたけ道が交差し、往還沿いに家居が集中する。地名は当地周辺の荒川東岸扇状地一帯に加牟那塚かんなづか古墳をはじめ多くの古墳があったことによるという。また古くは手塚てづかと称したともいわれ(「裏見寒話」など)、地内の称念しようねん寺の山号は手塚山。「一蓮寺過去帳」によれば、永享(一四二九―四一)から文安(一四四四―四九)の頃に供養の衆一房に「千塚」と注記される。天文一二年(一五四三)九月九日、武田晴信は信濃長窪ながくぼ(現長野県長門町)城主光台(大井貞隆)攻撃のため甲府をたち当地まで出陣した(高白斎記)。元亀四年(一五七三)九月五日、武田勝頼は当地のうち光蔵こうぞう寺分を前年の法性院殿(武田信玄)の約束どおり、向陽軒に安堵した(「武田勝頼判物」法泉寺文書)。天正四年(一五七六)八月二六日の武田家印判状写(「古文書雑集」若尾資料)には「千塚之弥兵衛」の名が記される。武田家滅亡後の天正一〇年八月一一日、当地のうち長塚分一〇貫文の地などが内藤又右衛門正行ら一一名に恩賞として与えられ(「徳川家印判状写」金桜神社文書)、同月二〇日には当地の夫田一五貫文などが前島又次郎に(「徳川家印判状写」譜牒余録)、翌二一日には当地のうち報恩寺分一〇〇貫文の地が駒井右京進政直に(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)、それぞれ本領であることを理由に安堵されている。


千塚村
ちづかむら

[現在地名]幸手市千塚

円藤内えんどううち村の西、しま川右岸の沖積地に位置する。同川の自然堤防とその後背低湿地からなる。西は八甫はつぽう(現鷲宮町)、北は島川を挟んで狐塚きつねづか(現栗橋町)。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。村内中央にある宝性院ほうしよういん池は宝永元年(一七〇四)洪水権現堂ごんげんどう堤が破壊され生じたという(郡村誌)。田園簿では田三二一石余・畑三三五石余、ほかに野銭永一四四文があり、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)


千塚村
ちづかむら

[現在地名]八尾市千塚・ひがし町六丁目

高安郡に属し、水越みずこし村の南、高安山麓に位置する。楽音寺がくおんじから南、大窪おおくぼ服部川はつとりがわ郡川こおりかわにかけての山地には、古墳後期の群集墳がある。これを高安古墳群とも高安千塚たかやすせんづかともいう。村名は、この高安千塚に由来すると思われる。昭和五三年(一九七八)大阪府立清友高校が当地に建設される時の事前発掘調査で、弥生から鎌倉時代までの遺物が出土し、高安千塚遺跡とよぶ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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