南浜村(読み)みなみはまむら

日本歴史地名大系 「南浜村」の解説

南浜村
みなみはまむら

[現在地名]鳴門市撫養町南浜むやちようみなみはま

斎田さいた村の南にあり、東を撫養川、南を新池しんいけ川が流れる。斎田村との間を東西に通る淡路街道(撫養街道と重なる)沿いは四軒屋しけんや町という郷町となっていた。南方新池川北岸の地に斎田村の飛地がある。西方木津きづ村境に一文字形の池があり、ここまでは撫養とされた(鳴門辺集)。文禄年中(一五九二―九六)に播州浪人小川勘左衛門が下人を連れ撫養に来て畠地を開発、二代目三郎左衛門が田畠を開発、塩浜を築立て南浜村と名称を改め、政所役に任じられたと伝える(文化六年「棟付帳」鳴門市史)。「鳴門辺集」には慶長年中(一五九六―一六一五)播州より尾崎孫之助が家来三人を連れて来住して塩浜を築立て、庄屋役を仰せ付けられその後小川三郎右衛門と姓名を改めたとある。斎田七島の一(享保一〇年「撫養塩浜開起書」馬居家文書)

正保国絵図には「才田之内南浜村」とみえる。当村の南方に描かれる「夷村」四四石余の新田も当村のうちか。寛文四年(一六六四)の在々古田出目并新田高帳でも斎田村の枝村として村名があげられている。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高二二五石余。享保二年(一七一七)の土手外検地帳(鳴門市史)では田畠合せて三石余・一町二反余が打出されている。


南浜村
みなみはまむら

[現在地名]びわ町南浜

川道かわみち村の南西あね川河口部に立地する。同川の三角洲地帯に形成された村で、川の北側を中浜なかはま村とよび、北の大浜おおはま村を含む三浜は西河内にしかわち河道浜かわみちはまなどと称された。河道浜は河内南浜と河内北浜に分れ、さらに北浜は大浜中浜に分れたという。中世は河道庄に属し、河内南浜と称された。慶長七年(一六〇二)一〇月、代官成瀬支配下の湖東五六村の新旧の検地高を記したとする浅井郡検地帳(東浅井郡志)によれば慶長検地では高二五四石余で、天正検地時より八六石余増加。寛永石高帳でも二五四石余で小堀遠州領(幕府領か)。元禄郷帳では小室藩領、文政石高帳では幕府領。天保八年郷帳には中浜村も併記される。また別に幕府領の南浜新田六石余が記載されるが、延宝検地で高付されたといい、旧高旧領取調帳では高一三石。


南浜村
みなみはまむら

[現在地名]大淀区豊崎とよさき一―三丁目・中津なかつ一丁目、北区中崎西なかざきにし四丁目・鶴野つるの町・茶屋ちやや町・芝田しばた一丁目

北・東・南を本庄ほんじよう村に囲まれ、西の村境を能勢のせ街道(池田道)が通る。初め浜村と称したが同じ西成にしなり郡内に同名村があったため、近世中期南浜村になったという(西成郡史)。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調以降の郷村帳類には南浜村とみえる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「浜村」とみえ高二二一石余。


南浜村
みなみはまむら

[現在地名]志賀町南浜

琵琶湖畔にあり、南は今宿いまじゆく村、西は高城たかしろ村。和邇南浜ともよばれる。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に「和邇崎」とあるのが当村のことと思われ、高二八〇石余。寛永石高帳に高三六六石余とあり、ほかに一三石余、幕府領。慶安高辻帳では田方二六九石余・畑方二五石余・永荒七一石余で、ほかに小物成米一三石余。元禄郷帳では高三二二石余。文政石高帳では同高で宮川藩領。天保八年郷帳では高三二二石余、宮川藩領の南浜村と、同村地先で高一石余、幕府領の南浜新田が記される。旧高旧領取調帳では高三二六石余の南浜村と、南浜村地先で高二石余の大久保おおくぼ新田がある。

明治物産誌では家数五二・人数二四九、船一五、農のかたわら漁業を営む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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