日本歴史地名大系 「南紺屋町」の解説 南紺屋町みなみこんやちよう 東京都:中央区旧京橋区地区南紺屋町[現在地名]中央区銀座(ぎんざ)一丁目京橋川南岸の河岸沿いにある。北東には中之(なかの)橋、北西には比丘尼(びくに)橋が北紺屋町との間に架かる。東は新両替(しんりようがえ)町一丁目・弓(ゆみ)町、南は弓町、南西は西紺屋町。中央部を京橋南西中通が南下する両側町。町名は国役の紺屋役を負担したことに由来するという(東京府志料)。寛永江戸図には「こんや町」とみえる。寛文新板江戸絵図には西方外堀沿いの道筋に南紺屋一丁目から四丁目までが南に向かって続いている。沿革図書によると延宝年中(一六七三―八一)には北部京橋川の河岸沿いの区画以外は西紺屋町となっている。安永三年小間附町鑑によれば小間一五八間三分九厘(うち京間一五八間三分九厘・田舎間一一四間)。 南紺屋町みなみこんやまち 香川県:高松市高松城下南紺屋町[現在地名]高松市紺屋町(こんやまち)・番町(ばんちよう)一丁目高松城南の職人町。東は丸亀(まるがめ)町、西は三番(さんばん)丁法泉(ほうせん)寺、北は外磨屋(そととぎや)町、南は寺(てら)町。東西約一八〇間・南北約四〇間の両側町。北西端に法泉寺塔頭長興(ちようこう)庵、その南側に寺町の東光(とうこう)寺があり、町屋との境に木戸があった(天保一五年城下図)。町名の由来は染物職人が住んだことによる。生駒氏時代屋敷割図には「こうや町」、享保年間(一七一六―三六)の城下図は「紺屋町」と記す。天明期(一七八一―八九)以後南紺屋の町名が定着した(天明年間城下図・御領分明細記)。 南紺屋町みなみこんやまち 大阪府:大阪市南区南紺屋町[現在地名]南区大宝寺(だいほうじ)町中之(なかの)丁山崎(やまざき)町の西にある九之助橋(くのすけばし)通の両側町。町域は九之助橋通と丼池(どぶいけ)筋との交差点を中心に東西南北各半町ずつ。町名は明暦元年(一六五五)から確認できる。当時は山崎町を含んだ範囲だったが、延宝七年(一六七九)に山崎町が分離し、町域は大幅に縮小された(南区志)。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二八・役数三一役で、うち年寄分一役が無役。年寄は八幡屋源三郎。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by