紺屋町(読み)こうやまち

日本歴史地名大系 「紺屋町」の解説

紺屋町
こうやまち

[現在地名]米子市紺屋町

法勝寺ほつしようじ町の西隣、西に向かって延びる通りの両側にある町人町。東端は南へ延びる横町橋よこまちばし通。総間数一〇〇間半、横町三八間、別に北方加茂かも川北岸の瑜伽ゆが権現へ向かう小路(瑜伽小路)三八間がある(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持二〇軒・借家五三軒。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高六一石余、物成三七石余(同書)。町名は紺屋(染物業者)が集住していたことによる。松田屋らの紺屋は加茂川と川岸の広場を利用して営業した。染料の藍は文化年間以降米子藍製座から供給を受け、幕末期には阿波産藍玉の使用も許された。染物業者のほか樫木細工・野道具屋・石工らの職人も居住、それぞれ座株を与えられていた。文政八年(一八二五)石工頭吉兵衛から在方の者が石細工を始めたことについて当町目代市左衛門らを通じ差留方願が出されている(在方諸事控)

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]盛岡市紺屋町・なか橋通はしどおり一丁目

鍛冶かじ町の南に位置する奥州街道の両側町で、三町ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。東は内加賀野うちかがの小路・葺手ふくで町、西は中津なかつ川河岸、南は呉服ごふく町に接する。寛永城下図に町名がみえ、奥州街道は南でやや曲折している。北の鍛冶町との境、当町の中央やや北寄り、南部の三ヵ所に東に延びる横町があり、南部のものは愛染横あいぜんよこ町と称した。幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には北から南へ一丁目・二丁目・三丁目と記される。天明八年(一七八八)の家数七一・人数六六二(邦内郷村志)。文化九年(一八一二)紺屋丁と改称(御家被仰出)。「盛岡砂子」によれば、市日は毎月三日・五日・晦日であったが、延宝三年(一六七五)六月一三日の市札には毎月一日市・九日市とある(御家被仰出)

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]堺市寺地てらじ西にし二―四丁・少林寺しようりんじ西にし三―四丁

寺地中浜てらじなかはまの西、大道の西三筋目の西六間にしろつけん筋から海岸部に至る町で、大道の西七筋目・同八筋目では南の少林寺町側の街区をも含むL字形の町。天文四年(一五三五)四月二八日の念仏寺築地修理料差文(開口神社文書)の「小屋町」にあたるとみられ、「妙善」「姫」「板原」「竹中」「井坊」「木津や」など七人の町人が修理料一貫文を寄進している。翌五年一一月五日には細川晴元被官木沢長政が小屋こや舳松へのまつ今市いまいち三町を攻撃するという話が伝わったため、源光げんこう寺空誓が本願寺証如に木沢氏との交渉を依頼している(天文日記)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]弘前市紺屋町

城の北西に位置し、五十石ごじつこく町から岩木川に至る道筋の町並。西濠を隔てて亀甲かめのこう町、西はふくろ町と接する。町内北側を大久保おおくぼ堰が横断する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、現町内を紺屋町と記し、現あら町付近の北部は「是より紺屋町」とあり、「かうや」が八四軒、料理屋一軒、大工一軒、風呂屋一軒ほかを数える。なお袋町を本紺屋もとこんや町、新町の誓願せいがん寺門前をも紺屋町と記し、紺屋が多く居住している。延宝七年(一六七九)の大組頭支配七組分御役人足出帳(同館蔵)によれば、町内には五組があって町役はすべて中役と定められ、年間五千二九二人の人足を町内で負担した。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]静岡市紺屋町・御幸町みゆきちよう伝馬町てんまちよう昭和町しようわちよう

駿府城下の横筋(横町)第一行の両側町。西は下桶屋しもおけや町南端に続き、北は東海道沿いの新谷しんがい町・伝馬町。町の西端南側に駿府代官所、東端南側に御米蔵(御蔵)、その西に少将井しようしようい社がある(以上、町方絵図)。町名は慶長年間(一五九六―一六一五)に染物師が居住したことにちなむという(駿河志料)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家四二・借家三八。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]浜松市紺屋町・松城町まつしろちよう元城町もとしろちよう

浜松城の南に東西に延びる脇町。神明しんめい町を西進してきた東海道は浜松城大手門前で南に折れ連尺れんじやく町に入るが、当町は神明町西端からそのまま西に延びる本坂通筋にあたる(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ二町五三間、家数六四。浜松各町書上では町並は南側一一一間一尺・北側一一三間。町幅二間五尺(ただし連尺町境では一間四尺)

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]水戸市白梅しらうめ四丁目

東は浜田はまだ瓦谷かわらや、北は備前びぜん堀を隔てて七軒しちけん町・うら二町目。「新編常陸国誌」に「古記云、長百十六間余、戸数三十八」とある。「水府地名考」に「此町紺屋職の者多く住せしゆへ、この名あり、紺屋のもの、初めハ太田に住せしが、天正十九年佐竹氏水戸城へ移被れし後、水辺にもとづき青柳村へ移り、寛永二年、田町を開かれし時、又水辺を慕ひ、当町に移りしとなり、仙湖の下流を前にしたる所なれハなり」とあり、「新編常陸国誌」は一説として「威公ノ画師ニ興也ト云フモノアリ、本朝画師伝云、狩野興也、俗名理右衛門、刑部ト云フ、法橋伯甫水戸ニ住ス云々、ソノカミハ、川傍ニ古キ並松アリテ、家居モ繁カラズ、景色ヨキ処ナリケレバ、此ニ第ヲ賜ハリテ住居セリ、興也廃跡ノ後、自然ト興也町ト呼ビシガ、其後青柳村ヨリ紺掻ヲ多クウツサレ、興也、紺屋音相同ジキヲ以テ、紺屋町トナレリトゾ」と記す。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]延岡市紺屋町

延岡城の北東、もと町の東、五ヶ瀬川北岸に位置する。元町から続く東西道に沿う両側町。元町との接点から北方に博労ばくろう町がある。延岡城下七町の一。元和元年(一六一五)岡富おかとみ村のうちを町割して形成された(延陵世鑑)。町名は紺屋を中心に職人居住の町として出発したことに由来すると考えられる。正徳三年(一七一三)の御城并町在所々覚書(内藤家文書)によれば、町の長さ東西一二一間・道幅三間、よこ町は南北二一間・道幅三間。延享四年(一七四七)頃の延岡町中竈数人高等寄帳(同文書)によれば軒数六二(本竈・店借とも)・人数二二八、医師二、酒株一の酒屋一軒。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]伊勢崎市大手町おおてまち

伊勢崎城の北東にあたり、あら町の北に連なる両側町。稲垣氏時代からの町。町名は紺屋業者が多く住んだことによる。「こうやまち」が通称であった。「伊勢崎風土記」によると寛永(一六二四―四四)以前に整備されていたという。寛永一九年からの書継文書である屋敷寸間帳(伊勢崎市立図書館蔵)によれば、東側北に一番屋敷があり、南辺に紺屋町東横ひがしよこ(同心町通小路、幅二間)が東へ通じる。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]小倉北区紺屋町・魚町うおまち三―四丁目・堺町さかいまち一―二丁目

小姓こしよう町の南筋で、町並は東西に連なり、西は旦過たんが橋から東は外堀(砂津川)中津口なかつぐち門の手前まで、一―五丁目までに区切られるが、その先は武家屋敷。東紺屋町とも記す(小倉領寺院聚録)。「コンヤ町」とも(寛政年間「小倉図」豊前叢書)。「倉府俗話伝」に「紺屋町五丁目角より東は、高田筋といふよし、一説には紺屋町一筋の惣名を高田筋といふなりと」と記される。一丁目の西に企救きく郡の郡屋敷があった(藩士屋敷絵図)

紺屋町
こうやまち

[現在地名]中央区大名だいみよう一丁目

「こんやまち」ともいう。雁林がんりんノ丁の東に位置し、東西に延びる通りの両側町。南は養巴ようはノ丁、北は紺屋町堀(中堀)に臨む(福岡博多近隣古図)。町名は染工が多く居住していたことにちなむ(続風土記)。播磨出身の先祖をもつ染工の亀屋嘉六は当町に居住していたが、火災にあって不便となり、元禄二年(一六八九)西にし町に移住(続風土記拾遺)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]浜田市紺屋町・天満町てんまちよう

浜田川左岸に位置する浜田八町の一つで、その東端に位置する。町並は東西に延び、東は三重さんじよう川を挟み黒川くろかわ村のうち牛市うしいち町、西はしん町に続く。浜田城築城以前から松屋・竹屋という紺屋があり、その後三隅屋・因幡屋という紺屋ができたのが町名の起りという(浜田町史)。町東端の三重口には番所が設けられ、同番所から西へ約三三間余は家中屋敷で、それに続いて浜田川左岸に沿って道幅約三間余、両側に一尺五寸の雨落溝をもつ長さ一〇一間の通りが新町に続く。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]掛川市紺屋町

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道の南裏通りの両側町。東はさかな町、南は総構えの堀を隔てて南西郷みなみさいごう村、西は研屋とんや町、北はなか町に接する。「掛川誌稿」によると、十九首じゆうくしよ町の紺屋甚太夫は毎年馬具の染手綱を掛川藩主に献じているが、昔は当地に住んでいたため町名の由来となったという。正保城絵図では町屋としてみえ、享保(一七一六―三六)頃の掛川城及城下之図(静嘉堂文庫蔵)に紺屋町と記される。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]平戸市紺屋町

平戸城の南西、かがみ川右岸に位置する。ほかの職人町から離れ、本町ほんちよう善積ぜんつみ町・吉野よしの町の西手にある。職人しよくにん町五ヵ町の一つで、染屋そめや町ともいう。鏡川に架かる江月こうげつ橋は寛永年間(一六二四―四四)に当地を訪れた僧江月のために造築されたとされ、その試作として報恩ほうおん橋が架橋されたという。元禄一〇年(一六九七)当時の諸商職は染屋二五・晒屋二・平鍛冶一・家大工一・桶屋一(借屋)のほか、髪結一・豆腐屋一・日用取四・諸色振売小商人四、また奥指があった(町方年鑑次第)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]結城市結城 紺屋町

西宮にしのみや町の北に位置。御朱印ごしゆいん堀の内にあり、文禄年間(一五九二―九六)結城秀康によって建設された町で、当初は紺屋職人が集住していたようである。

天正二〇年(一五九二)二月七日、秀康の奉行人たちは奈良弥三郎らに対して「結城御領分并当町中紺屋大工、奈良弥三郎へ被仰付候之間、奈良弥三郎に被相渡候」という文書を与えている(奈良文書)。秀康はその翌々日、弥三郎に七〇石の知行を宛行い、文禄二年一一月には秀康の奉行人たちが「奈良紺屋弥三郎、結城御大工ニ被仰付候間、御領分之紺屋中、桶壱つニ付、年中ニ米壱斗之分、弥三郎方へ毎年其礼儀可有之候」という文書を弥三郎宛に発している(同文書)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]高知市はりまや町一―二丁目・帯屋おびや町一丁目

南種崎みなみたねざき町の北に並行する両側町。西は北種崎町、東は材木ざいもく町に通ずる。町名は城下町建設当初紺屋が住んだことに由来するという。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西六五間、南北四九間、家数五三。

「紺屋町聞出文盲」(県立図書館蔵)によると江戸時代中期、当町で紙子商いをしていた新興商人の松永屋兵左は才智にたけた人物で、藩札が使用されていた頃、ある豪商から銀札二〇〇匁を借用、役所で正銀二〇〇匁と交換して上方へ商売に行き、正銀一〇〇匁を残して帰り、その正銀一〇〇匁を銀札二〇〇匁で売却して豪商に返却している。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]前橋市千代田町ちよだまち二丁目・同四―五丁目

主要通筋であるほん町の北側にある東西通で、西はくわ町、北はえのき町と横山よこやま町。東端の南北通の西側も当町に属し、向い側は榎町に属する。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に「三処に在り。其の一は本町の北に在り、又一は其北に在り、道は東北に通ず。其の西は下町に接す。又一は其の東に在り、道南北に通ず。南は本町横通りにして其の北は榎町なり」と記される。

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]岡山市天瀬あませ天瀬南町あませみなみまち

外堀の南側に接し,南北の道を挟む両側町、郭外商業地域の町で、東は細堀と道を隔て久山くやま町、南はあぶら町・平野ひらの町・児島こじま町、西は道を隔て大隣だいりん寺・末山すえやま町、北の外堀に面した町口門は城下七ヵ所の一の請取口門とされた。寛永城下絵図では町名の記載はなく、慶安城下絵図に紺屋町とみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は八反余で、うち御免地狩野左太郎屋敷四畝余を除き徳米九石四斗余・口米一斗余。近世初期の区分は外町(市政提要)、中期以降は下組の外町(岡山市史)。「吉備温故秘録」に大隣寺前北より一七間、南北西側は横町を限り、東側は北より一八間半あり、中の横町ともいうとある。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]久留米市日吉町ひよしまち

三本松さんぼんまつ町の東にあり、町並は東西に続き、北側はしん町が並行し、東は十間屋敷じつけんやしきと接する。有馬氏入部以前はうち(寛文十年寺社開基)とよばれていた町の一部で、元和七年(一六二一)山伏円光院が小祠を建てたという(石原家記)。「古代日記書抜」寛文七年(一六六七)七月条になが町の火事で紺屋町が類焼したとあり、寛文十年寺社開基では紺屋町・紺屋町二丁目とみえ、寛永元年(一六二四)山伏金寿院が紺屋町二丁目に祈念所を建立している。元禄九年(一六九六)の白石火事で全焼、宝永二年(一七〇五)の湯山火事でも類焼した(石原家記)。「啓忘録抜萃」では町別当研屋掛に属し、紺屋町は家数二八軒・小間数一二六間、紺屋町二丁目は三三軒・小間数一三九間半。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう四丁目・中央西ちゆうおうにし一丁目

矢出沢やでさわ川の南側を通る北国脇往還に沿い、東はやなぎ町、西は鎌原かんばら(現上田市中央西一丁目)につながる。町の長さ五町三七間(長野県町村誌)。上紺屋町と下紺屋町に分れる。真田氏がゆかりの深い小県ちいさがた海野うんの郷の紺屋を移住させてつくった町(上田市史)で、矢出沢川の水を利用させたものであろう。

寛文三年(一六六三)家数二六、人数二三四人(原文書)、宝永三年(一七〇六)家数四六(うち紺屋一〇)、人数三二五人(上田藩村明細帳)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]新湊市立町たてまち

うち川の南、法土寺ほうどうじ町の西に位置。内川に架けられたあずま橋の南詰から西に紺屋町通が延び、西端の神楽かぐら川を越えて放生津新ほうじようづしん町に続いた(嘉永六年「放生津領分間絵図」新湊市教育委員会蔵)。北の山王さんのう町からは内川を隔て川向いで、寛永―明暦(一六二四―五八)の頃はむかい町とよばれていた。町名は室町末期に紺屋座があったとされることに由来するといわれる(新湊市史)。元禄(一六八八―一七〇四)頃から立町・法土寺町とともに三町とよばれるようになった(同書)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]米沢市本町ほんちよう一―三丁目・太田町おおたまち二―三丁目

みなみ町の南、城下東南端に位置する町人町。東西の道の両側町。城外への出入口一二口の一で、原方衆の六十在家ろくじゆうざいけ町などに通じる。脇町一三町の一。染屋が多く居住していたことからの町名か。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数五九、うち役屋五二余・無役六余(川除普請のみに出役)。同年の町方書上(米沢の町人町)によれば最大の間口の家は検断石塚屋敷で一八間、そのほかの大半は間口六間。享保一〇年(一七二五)の町方書上によれば町の長さ四町四間一尺五寸・道幅六間、家数は本屋八四・名子一七。

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]長浜市朝日町あさひちよう

南は南新みなみしん町、西の大安寺だいあんじ町から東の八幡はちまん町へ続く東西通りの両側町。朱印地。慶安四年(一六五一)の検地帳(川崎文書)に屋敷地二二があげられ、うち明屋敷二。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一七(借家三)、男四〇・女三三で、町代・横目が置かれ、紺屋八がおり、貸家一がある。享保一五年(一七三〇)の長浜人数留(今村文書)によれば家数二三、男四六・女四二。文化六年(一八〇九)の竈数二六(「町役掛諸用要留」吉川文書)

紺屋町
こうやまち

[現在地名]徳島市紺屋町こんやまち

しん町最南端に位置する町人地。富田とみだ町・籠屋かごや町・南大工みなみだいく町の南端を東西に通る。道路南側を瑞巌ずいがん寺奥のしい谷とかくれ谷から流れ出た水路が流れ、西富田にしとみだと境する片側町であった。町名の由来については、「阿波志」などによると、当時知行高二五〇石の藩士であった長浜文兵衛の屋敷地(現紺屋町五番)には、かつて河野氏の住居があったことから、河野町、転じて紺屋町というとされ(田所眉東「粟種袋」)桶屋おけや町の支坊であった。また三好氏時代に紺屋座が置かれたところなどの説もあるが定かでない。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]亀岡市紺屋町

本町ほんまちの西端に接し、南北一四一間の町並。本町から続く京街道筋、さらに北の西町にしまちに続く。

地内は荒塚あらつか村分内で、築城の際に荒塚村住民が移住させられた。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数六四、農業を主とし、その間に紺屋を住まわせた。

町並の北方に西の穴太あなお寺へ通じる穴太道があり、その沿道に松平家菩提寺として、篠山ささやま(現兵庫県多紀郡篠山町)から藩主移封とともに移された円通えんつう寺があり、町裏郭まちうらくるわ堀の内側に元禄一七年(一七〇四)城主青山忠重が秋葉三尺坊を勧請した秋葉あきば神社がある。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]大多喜町紺屋

大多喜城下の北端に位置し、大多喜往還に沿う両側町。城下七町の一。小田喜根古屋おだきねごや城下の職人町が近世城下に取込まれたとみられる。慶安二年(一六四九)の大田喜根小屋地詰帳(小高家文書)に紺屋町とみえ、田畑屋敷反別二町七反余。元禄郷帳では高三一石余。幕末も同高。享保期(一七一六―三六)の軒数四〇で、屋敷間口七―八・五間が二八軒と多かった。東の夷隅川沿いに長楽ちようらく寺・密蔵みつぞう寺・観音寺があった(「大多喜城下絵図」渡辺家蔵)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五五。安政三年(一八五六)の紺屋町五人組改帳(観音寺文書)では軒数四六(粉屋一・酒造一・荒物屋三・古道具屋一・小間物屋五・油屋二・居酒屋三・蕎麦屋一・穀屋一・豆腐屋一・大工四・桶屋三・左官一・湯屋一・菓子屋一・鍛冶屋二・土方一・醤油屋一・石屋一・柄巻一・足袋屋一・不詳一〇)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目

上呉服かみごふく町通を東に折れたところにある東西に延びる町。北はやなぎ町、南はかみしも板屋いたや町。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳に「紺屋町 八拾八間、往還ヨリ片原町迄、但上下二町分、但道幅四間半」と記す。

紺屋業者の居住した町で、慶長年間北庄四ツ割図によると、家数三四。このなかには広さ一六五坪の奈良紺屋が記される。奈良紺屋は慶長六年(一六〇一)結城ゆうき(現茨城県結城市)から引移ったもので、領内紺屋の総元締を勤める藩御用職人として、貞享二年(一六八五)まで七〇石の知行が与えられていた。

紺屋町
こうやまち

[現在地名]人吉市紺屋町

球磨川と山田やまだ川の合流点に位置し、人吉城下の町人町の西端をなす。東は大工だいく町、南は九日ここのか町、北は鍛冶屋かじや町、西は山田川を挟みおお村と接する。明治時代の「熊風土記」によれば、文禄三年(一五九四)諸郷より紺屋を集めて計画的に立てられた町で、南同心みなみどうしんとも称した。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば、「紺屋町弐町七間半、道幅四間三尺、下水道加へ、横町南北弐町五間半、合四町拾三間、但屋敷数百参拾九軒」とあり、町別当は久米右衛門であった。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち五―七丁目

城下そと町中央部南寄りを東西に通る町筋。南の下屋敷しもやしきの通筋と並行する。山下さんか一八町の一。東端はなか堀西側の通り(堀端筋)、中堀に架かる橋を越えてうち町の四丁目よんちようめに通じ、西端は南北に通る下代げだい(江国寺通)みぞノ丁に至る。ただし北のみの片側町で南側と西方は武家地となっていた。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]上野市紺屋町

三之町さんのまち筋の中央部に位置する。紺屋商とその職人を住まわせた町と伝えるが、紺屋商としては、享保五年(一七二〇)上野町の定肝煎の一人に任ぜられた湯舟屋孫兵衛(姓西岡)と布袋屋忠右衛門(姓伏見)のほかはつまびらかでない(上野町旧記目録)。寛永絵図(岡森明彦氏蔵)では、三ノ町とのみあり、まだ紺屋町の名はあらわれない。天和二年(一六八二)の「茅栗草子」や、貞享四年(一六八七)の「伊水温故」などに紺屋町の名がみえる。町の中央部に正崇しようそう寺と寿福じゆふく院があり、その南に東西九五間の大きな藪があった。

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]伊丹市中央ちゆうおう三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。ほん町筋西の路地西側、八百屋やおや町の南に位置する。文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は四八間(「正心調法記」武田家文書)。町の北側に寛文元年(一六六一)から伊丹を支配した近衛家の会所があった(寛文九年伊丹郷町絵図)。銘酒「剣菱」の醸造元津国屋勘三郎の酒蔵もあり、本町筋から当町への路地を剣菱けんびし小路とよんだ(天保一五年「郷町分間絵図」武田家蔵)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]大和郡山市紺屋町

天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)にみえる本町(箱本)一三町の一つ。地子免除の町方。初期は紺屋仲間など同業者の集りで営業上独占権を与えられた町人の形成した町であろう。

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 永繁町えいはんちよう

杉野神すぎのがみ町の西に続き、日野大窪町の南寄りに位置する。中野なかの城下の職人町として成立、城下町割では南今みなみいま町通七ヵ町の一、永盤えいはん町にあたる。延宝七年(一六七九)より日野大窪町大窪組に所属。町名のように紺屋が多くあったが(蒲生旧趾考)、享保三年(一七一八)には日野椀を扱う行商人(彦四郎)もおり(中井文書)、寛保三年(一七四三)には合薬屋一軒があった。

紺屋町
こやまち

[現在地名]田辺市紺屋町

熊野街道沿いのほん町の北側にある両側町で、浅野氏による田辺城下経営時からの町。町内の一部に通称土成どじよう町・吹屋ふきや(北町とも)がある。宝暦一一年(一七六一)多屋氏が鋳物業を創業、それ以後吹屋町の名が生じたという(田辺要史)。享和元年(一八〇一)の調べでは町の長さ一四八間、うち二一間は鍛冶屋敷で無役、一二七間が役家、二八間役(「田辺藩古記録」宇井文書)。享保一〇年(一七二五)の調べでは、町内の諸職・諸商売人は紺屋八、匠屋指物屋三、鍛冶四、大工三、畳屋一、医師二、その他扶持人二、比丘尼一、ごぜ一、他所奉公人一、他所稼九、仲使日用三五が住し、借家三〇軒(「田辺諸事控」多屋家文書)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]小矢部市八和町やつわまち

下糸岡しもいとおか町となか町を結ぶ南北道沿いの両側町。本町に属する。木舟きぶね(現福岡町)城下にあった紺屋町人が当地に移住してきて町立てしたものとされる。東裏は御坊ごぼう町の乗光じようこう寺に接する。寛保二年(一七四二)には宅地一千七五七歩余で、地子米九石二斗五升余(一歩につき五合二勺余)

紺屋町
こんやまち

[現在地名]彦根市本町ほんまち一丁目

京橋きようばし通に面し、上本町の南に位置する。町割当初は紺屋のみ居住し、大坂の陣で幕御用を勤めたことにより、井伊家などの「格別之御染物」といえば当町に仰せ付けられたという(「当新町家事」彦根市史)。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数六一のうち借家四四、男一三五・女一二七(下人四〇)、諸職諸商は二四種五三軒で、紺屋は八軒、ほかは花屋・八百屋・上絵師・万屋・家具屋など、町代・横目とも紺屋が勤めている。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]魚津市新角川しんかどがわ二丁目

角川町から東に延びる通りの両側町で、北は臼屋うすや小路、東は八幡はちまん町。寛文(一六六一―七三)頃に紺屋佐右衛門が住み、紺屋を営む者が数戸あったのが町名の由来という(下新川郡史稿)。正徳三年(一七一三)二〇戸で町立てされ、享保三年(一七一八)に二六戸となり、魚津町田地方うおづまちでんじがた領の地を請地していたという(「吉野旧記」魚津町誌)

紺屋町
こうやまち

[現在地名]福江市福江町・紺屋町こんやまち武家屋敷ぶけやしき二丁目

福江城の南に位置する。天和二年(一六八二)紺屋町下に一人など一二ヵ所の辻固の足軽が定められている(五島編年史)。元禄六年(一六九三)紺屋町の者に蠑螺さざえ島吟味掛合を申付け、島の「あくち木」を伐って灰を作り、また枯木をとらせたという(「元禄年間御日記抜書」同書)。安永六年(一七七七)当時の紺屋乙名は村上作兵衛。寛政七年(一七九五)長崎町から紺屋を招請し、これ以後長崎に送る染物をこの紺屋に申付けることになったという(「鶚山君直筆日記書抜」同書)

紺屋町
こうやまち

[現在地名]佐賀市紺屋町・東佐賀町ひがしさがまち

佐賀城の東にある。武家屋敷である片田江七小路かたたえしちくうじ東田代ひがしたしろの間に川を挟んで南北に長い町がつくられ、右岸(西側)材木ざいもく町、左岸(東側)が紺屋町である。佐賀江・今宿いましゆく川をさかのぼっての舟運によって物資が集散され、商業に適している。

嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば、紺屋町は東西に分れ、道路を挟んで川岸に近い紺屋町西は実竈数一三五で、職業は日傭取・炭薪屋・川舟さし・米屋が多く、紺屋は一竈もない。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]和歌山市湊紺屋みなとこんや町一―三丁目・伝法橋南でんぼうばしみなみの

湊地区の北端、伝法川南の町人町。東から一―三丁目まであり、東側は昌平河岸しようへいがし、西側は西河岸にしがし。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図には当町の北、伝法川岸に「湊御屋敷」「御水主長屋」「主税頭様御屋敷」を記す。湊御屋敷の東南隅には正徳三年(一七一三)藩の講釈所が設けられ、寛政三年(一七九一)学習館と改称されて藩士の教育機関となった。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]長野市松代町紺屋町

伊勢いせ町と紙屋かみや町の間にある町。もと紺屋が居住したのでこの称がある。寛文一一年(一六七一)の寛文間帳に「御城たゝみべり染申候事」とある。

城下の染色業が盛んになるに及び、汚水が城の堀に流れ込み汚染したため、藩では業者を川下のさかな町や荒神こうじん町へ移住させ、名称だけ残った。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]松阪市本町

城郭の東北部にある。「権輿雑集」に「丁役弐歩五厘、天正十六子年、松ケ嶋より移ス、当町旧は紺屋のミ成よし、今は絶たり」とあり、かつて紺屋の同業者町であったが、この頃(宝暦二年)にはとうに廃れていたと述べている。「宝暦咄し」に「其比江戸店持し方」として、紺屋町に長谷川・須賀九兵衛・川口覚兵衛・津しま屋・中里両家・柳屋両家・長井元慎・殿村三軒・藤田・中条・中川両家・長井加左衛門・森田・清水・小津次郎左衛門・西村・浜田・村田伊三・川口弥兵衛・田中五郎右衛門・中村・長島・小津六平・長井与八の商家が書上げられている。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]豊橋市大手おおて

手間てま町の西に続く裏町。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると、高三石余、戸口は二一軒・一五四人、うち男七〇・女八四である。

吉田宿の紺屋の数は、正徳二年(一七一二)に二〇軒であるが、年未詳の紺屋職株取立願(杉本家文書)によると三六軒あったことが確認できる。同じく年未詳の紺屋株取締願(同文書)に「吉田町紺屋職之者共儀者先年取締株奉願上候処、御慈悲を以被為仰付被下置難有仕合ニ奉存候、為御冥加御上様御用御染物、年々弐拾反宛染揚御上納仕、紺屋職相続仕来候得共、近年町並之在地口々江出職之もの御座候ニ付、私共商売之差障之筋ニも可相成奉存、乍恐始末左ニ奉願上候」とあるように、冥加として年二〇反の染物を上納していた。

紺屋町
こんやちよう

下京区土手町通正面下ル

南北に通る土手町どてまち通を挟む両側町。町の北側は正面しようめん(旧七条坊門小路)にも面する。江戸時代は南北に走る御土居おどいの西側に沿う。

平安京の条坊では左京七条四坊三保一四町の地。

町の形成の事情は溜池ためいけ町に同じ。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]八代市ほん町一丁目

城の南南東に位置し、北および西は本町、東と南はまえ川堤防に面した縦町で、糸や衣類の染物の町として発達した。法華宗本成ほんじよう(現日蓮宗)と浄土宗荘厳しようごん(現廃寺)との間に笹堀とよぶ小さい掘割がある。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]会津若松市大町おおまち一丁目

七日なぬか町の北に並び、大町より西の方大和やまと町に行く通りで、長さ二町五二間・幅四間、家数四六。その昔紺掻が多く住んでいたための町名という(新編会津風土記)。町内の人々は「こうや町」とよんでいる。文化四年(一八〇七)の「若松風俗帳」は、この町には職人が居住し、塗師が多いと記している。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]山崎町山崎

山崎城下一一ヵ町の一つ。城下中央北部にあり、北魚きたうお町東部から北へ延びる通りの両側町。町名は紺屋職人の町であることに由来するという。地子米は寛文一二年(一六七二)三石余、享保一五年(一七三〇)二石余(山崎町史)

紺屋町
こんやちよう

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

一町目筋の南側、とおり町と東の川端との中間にあった職人町。松平輝興時代絵図に「コンヤ丁」とみえるが、浅野家家中図(花岳寺蔵)には載らず、安永―享和(一七七二―一八〇四)頃の播州赤穂城下図(同寺蔵)に「コウヤ丁」と記される。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]西条市栄町さかえまち

寛永開町当時から続いた町。当町の町年寄大和屋次右衛門の先祖庄助や備前屋又吉の先祖庄三郎らが大町おおまち村から移って開いた。町名は、当町に紺屋が七軒あったことに由来する。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]大津市中庄なかしよう一丁目

伊勢屋いせや町から東海道が直角に南へ折れる南北の町並。中ノ庄村域に町割が行われた両側町。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は二五間余、家数一三。膳所藩明細帳では家数一三・人数五六。

紺屋町
こんやまち

[現在地名]桑名市紺屋町

吉津屋よつや町の東にあり、南北一条の町屋敷地。東は堀に面し、北半分は片側町。当町に下里氏が居住、「久波奈名所図会」に「下里氏先祖ハ石田治部少輔三成家臣下里何某と云、関ケ原敗軍の後浪人と成当所に居住し、紺屋を以業とす、依て町割の時家業を以町名とす」とある。

紺屋町
こやまち

[現在地名]舞鶴市字紺屋こんや

西町にしまちの東南方、愛宕あたご山の東麓に位置する。享保(一七一六―三六)頃写された丹後国田辺之図(杉本隆司家蔵)によれば、町は北より南に一〇五間、幅三間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報