日本歴史地名大系 「紺屋町」の解説
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こんやまち
城の北西に位置し、
正保三年(一六四六)の津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、現町内を紺屋町と記し、現
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやちよう
東は
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやまち
天正二〇年(一五九二)二月七日、秀康の奉行人たちは奈良弥三郎らに対して「結城御領分并当町中紺屋大工、奈良弥三郎へ被仰付候之間、奈良弥三郎に被相渡候」という文書を与えている(奈良文書)。秀康はその翌々日、弥三郎に七〇石の知行を宛行い、文禄二年一一月には秀康の奉行人たちが「奈良紺屋弥三郎、結城御大工ニ被仰付候間、御領分之紺屋中、桶壱つニ付而、年中ニ米壱斗之分、弥三郎方へ毎年其礼儀可有之候」という文書を弥三郎宛に発している(同文書)。
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやちよう
外堀の南側に接し,南北の道を挟む両側町、郭外商業地域の町で、東は細堀と道を隔て
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こうやまち
大多喜城下の北端に位置し、大多喜往還に沿う両側町。城下七町の一。
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こやまち
熊野街道沿いの
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こうやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
吉田宿の紺屋の数は、正徳二年(一七一二)に二〇軒であるが、年未詳の紺屋職株取立願(杉本家文書)によると三六軒あったことが確認できる。同じく年未詳の紺屋株取締願(同文書)に「吉田町紺屋職之者共儀者先年取締株奉願上候処、御慈悲を以被為仰付被下置難有仕合ニ奉存候、為御冥加御上様御用御染物、年々弐拾反宛染揚御上納仕、紺屋職相続仕来候得共、近年町並之在地口々江出職之もの御座候ニ付、私共商売之差障之筋ニも可相成奉存、乍恐始末左ニ奉願上候」とあるように、冥加として年二〇反の染物を上納していた。
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやちよう
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こんやまち
紺屋町
こやまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報