日本大百科全書(ニッポニカ) 「南部鉄器」の意味・わかりやすい解説
南部鉄器
なんぶてっき
もと南部家の所領であった岩手県盛岡地方でつくられる鉄器。盛岡近辺は北上川流域を中心に室町時代以来、製鉄が盛んに行われており、江戸中期ごろから茶の湯釜(がま)や芸術性のある鉄瓶などの鋳造が行われた。今日いう南部釜、南部鉄瓶の起源は、延宝(えんぽう)(1673~1681)ごろ、京都の釜師小泉仁左衛門清行が南部藩の御用釜師として盛岡に移り住み、黒木山の鉄、北上川の砂鉄を用いて鋳造を始めたことによるという。その後、有阪、鈴木、小泉、藤田、高橋の各家が栄え、釜、鉄瓶は盛岡の特産品となった。1899年(明治32)、東京美術学校鋳金科を卒業した盛岡出身の松橋宗明(1871―1922)は、家老職の家に生まれた関係から帰郷後、旧藩邸内に南部鋳金研究所を設立。地元の青年を集めて鋳造技術の指導を行い、在来の形状に新しい意匠を加えて、南部鉄器の名で全国的な声名を得る基礎を築いた。また、盛岡の南に位置する水沢地方(奥州市)は江戸時代には伊達藩の支配下であったが、この地域も鋳造業が盛んで、明治時代になると技術交流が進み、昭和30年代には南部、水沢の両地でつくられた鋳物を総称して南部鉄器とよぶようになる。現在では南部鉄器協同組合と水沢鋳物工業協同組合が連合して、「岩手県南部鉄器協同組合連合会」を設立し、地域団体商標として登録されている。
[原田一敏]