茶の湯の会に使用される釜の総称。茶の湯釜ともいう。金属鋳造の製品で、南鐐(なんりょう)(銀)、鋳銅のものもときにはみられるが、ほとんどが鋳鉄製である。現在では茶釜は世界に類をみない鋳鉄製品の技術の精華であるといえよう。その原初的な形態は古代中国にみられる鼎(かなえ)(両耳、三脚を備えた青銅器)であるが、茶に使われたものとしては、陸羽(りくう)の『茶経(ちゃきょう)』(760ころ成立)に「鍑或作釜(ふあるいはかまにつくる)」とあり、釜は生鉄(せいてつ)でつくるとあるのが最初であろう。わが国でも、湯を沸かすための釜は『日本書紀』に「釜に赴(ゆ)きて探湯(くかたち)す」(允恭(いんぎょう)天皇4年9月条)と盟神探湯(くかたち)の記事がみられ、鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に「片かま」「わきかま」とあり、『堤中納言(つつみちゅうなごん)物語』に「能登(のと)鼎」「讃岐(さぬき)釜」とあって釜が登場するが、いずれも喫茶用の茶釜ではない。しかし、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』や『掃墨(はいずみ)物語絵巻』などに風炉(ふろ)釜や鑵子(かんす)釜の絵がみられるので、鎌倉末期から南北朝時代に茶の湯釜がつくられ始め、室町初期に至ると優秀なものが多く鋳造されたとみることができよう。
[筒井紘一]
釜の製造法については、『茶経』の「鍑(ふ)」に、鉄を溶かして鋳型(いがた)に入れる、型の内側は土で、外側は砂になっていると書いてあるように、中国でも日本でも鋳型に入れてつくることに変わりはない。ともあれ工程の第一は紙型の作成である。次にそれにあわせた土型をつくるが、それは上下に二分して別々につくっておく。重ねると下のほうが釜の上部になり、上のほうが釜の底部となる。すなわち型では釜はうつぶせて鋳られることになる。上下二つに分けてつくられた外型はのちに接合する。接合部は羽のついたもの(羽釜(はがま))や、毛切(けぎ)り(細い一本の筋目を入れる)にしたものもある。また別に釜の厚みだけを削った中型をつくり、これを外型の内部に納め、外型と中型を固着させる。外型の内側には鐶付(かんつき)の型をはめ込んだくぼみをつくり、胴回りの地紋である装飾文様は金属のへらで彫っておく。そして外型の底を上にして、開いた口から溶かした鉄を注いでいく。これを湯口という。鋳造が終わると外型を外し、中型を砕いて取り除き、仕上げを行う。さらに焼抜きをし、肌の仕上げと色付けを行う。
[筒井紘一]
筑前(ちくぜん)国(福岡県)の遠賀(おんが)川河口にあり、南北朝時代ころから鋳造が始まり、室町時代に全盛期を迎えた茶の湯釜の代表的な産地。足利義政(あしかがよしまさ)の東山山荘には芦屋の津を領した大内政弘(まさひろ)から多くの釜が献上されたといわれ、このころには名実ともに茶の湯のための釜が製造されたことがわかる。やがて大内氏の勢力が弱くなるにつれ、しだいに衰退し、江戸初期には消滅した。その特徴は真形(しんなり)の形態が多く、鐶付は鬼面(きめん)、肌は絹肌か鯰(なまず)肌などの滑らかなことである。内側にはろくろ目がつく。地紋は洲浜(すはま)や松林・梅・竹・山吹などの植物、鶴(つる)・野鳥・馬などの動物と、亀甲(きっこう)紋・七宝(しっぽう)紋・巴(ともえ)紋などの型押しの技法がある。芦屋は筑前の芦屋以外に、越前(えちぜん)(福井県)の越前芦屋、伊勢(いせ)(三重県)の伊勢芦屋、肥前(長崎・佐賀県)・播磨(はりま)(兵庫県)・石見(いわみ)(島根県)・伊予(愛媛県)などの芦屋釜もある。
[筒井紘一]
天明釜、天猫釜とも書く。下野(しもつけ)国佐野郡(栃木県佐野市)天命の一帯でつくられた釜の総称。鎌倉極楽(ごくらく)寺の尾垂(おだれ)釜には文和(ぶんな)元年(1352)の年記があって最古の天命釜とされているから、鎌倉末期には釜の鋳造が始まっていたと考えられる。芦屋釜と同じく、東山時代から茶の湯釜が多くつくられるようになって京都に進上されている。その特徴は、三足(みつあし)釜を古式として、甑口(こしきぐち)、輪口(わぐち)が続き、桃山時代に入ると姥口(うばぐち)や落口がつくられている。羽も古くから失われている(羽落(はおち))。芦屋釜が地紋を特徴としているのに対し、荒々しい素肌を第一としているが、筋・網目・霰(あられ)・文字などの単純な地紋もある。鐶付は遠山(とおやま)・撮(つまみ)・鬼面・獅子(しし)がほとんど。全体としてわびた趣(おもむき)のものが多い。
[筒井紘一]
室町末期から京都・三条釜座で鋳造された茶の湯釜の総称。武野紹鴎(たけのじょうおう)の釜師として活躍した西村道仁(どうにん)がもっとも古く、ついで名越善正(なごしぜんせい)のあと、千利休(せんのりきゅう)の釜師として天下一の称号を与えられた辻(つじ)与次郎によって京釜は完成した。その後、江戸時代に入ると、大西浄林(じょうりん)を祖とする大西家、名越浄味(じょうみ)家、西村道弥(どうや)家などが活躍している。
[筒井紘一]
江戸時代に入ると、京釜の釜師のなかには江戸へ呼ばれる者もあって、関東古作と称されるような釜造りが行われるようになった。大西家の2代浄清(じょうせい)に従って江戸へ下り、定住するようになった定林(ていりん)は江戸大西家をおこし、代々五郎左衛門(ごろうざえもん)を名のっている。また寛永(かんえい)年間(1624~44)に江戸へ出て遠州や石州好みの釜を多くつくった名越弥五郎を祖とする江戸名越家も代々弥五郎を称している。
[筒井紘一]
裏千家4世仙叟(せんそう)宗室が、加賀藩前田家に推挙した宮崎寒雉(かんち)家は、初代寒雉以来、代々寒雉を名のって現在に至っている。また近代においては、大阪、富山県高岡、岩手県盛岡などの各地において茶の湯釜の製作がなされており、それぞれの特徴を表現しようとしている。
[筒井紘一]
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…江戸時代の《和漢三才図会》では,鼎(あしかなえ),釜(まろかなえ),鑵子(かんす),鍑(さがり)などの種類をあげている。鼎は足釜,釜は丸底の煮炊き用,鑵子は茶釜,鍑は懸釜のことである。このほか,湯屋用の大釜もあり,東大寺大湯屋には鎌倉時代に重源が作らせた鉄製大釜(口径232cm)がのこっている。…
※「茶釜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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