南郷城跡(読み)なんごうじようあと

日本歴史地名大系 「南郷城跡」の解説

南郷城跡
なんごうじようあと

[現在地名]吹上町永吉

日吉ひよし吉利よしとし境近くの標高九四メートルの宇都うと山上に立地する。浸食谷と急崖および空堀に囲まれた山城。西側は吉利の野久尾原のくびはらを経て吹上浜を眺望でき、南側は永吉ながよし川との間に永吉麓集落を見下ろせる。城名は当地域一帯が島津庄寄郡日置南ひおきなん郷とよばれたことに由来する。建久八年(一一九七)一二月二四日の内裏大番役支配注文(旧記雑録)に南郷の万楊房とみえるが、これは南郷の郡司兼御家人の桑波田覚弁のことである。覚弁は紀氏姓伊集院氏から分れた桑波田源知の嫡子で、「薩隅日三州他家古城主来由記」はこの覚弁を当城の最初の城主とし、以後子孫が代々当地を領有したと記す。

南郷城跡
なんごうじようあと

[現在地名]南郷町中村甲、日南市下方

中村なかむら北端、日南市下方しもかたとの境にそびえる山(一二二・四メートル)の山上に位置し、城域は中村甲なかむらこう城山しろやま本丸ほんまるから下方字東平ひがしびらなどにまたがる。慶長六年(一六〇一)伊東氏による築城と伝える。同氏は前年の関ヶ原合戦では櫛間くしま(現串間市)の秋月氏と対立、翌六年二月二日から当城を築いて南郷地頭を配置し、秋月氏に備えたという(日向記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報