飫肥南郷(読み)おびなんごう

日本歴史地名大系 「飫肥南郷」の解説

飫肥南郷
おびなんごう

島津庄寄郡のうちで、郷域は現在の南郷町から日南市南部に及ぶ一帯に比定される。建久図田帳には島津庄寄郡のうちとして「飫肥北郷四百丁、同南郷百十丁」とみえ、飫肥北郷とともに宮崎郡内で、地頭島津忠久であった。応永二八年(一四二一)二月二七日付の建久図田帳追記でも田積は同じ。なお得田年貢は反別三九文であった(文永五年三月二五日「櫛間院年貢注文」野辺文書)。建久九年(一一九八)二月二二日、源頼朝は島津忠久に島津庄内の飫肥南郷郡司名田など七ヵ所を与えている(「関東御教書案」島津家文書)。正中三年(一三二六)頃、大隅禰寝ねじめ志々女ししめ(現鹿児島県鹿屋市)弁済使職などを争った観睿は、当郷地頭の被官で(同年三月日「島津庄留守左衛門尉惟宗下文」志々目文書)、かつ公文でもあったとみられる(年月日未詳「禰寝院弁済使職相伝次第」同文書)

建武五年(一三三八)五月二九日、那賀(日下部)盛連は、南朝方の肝付兼重・野辺盛忠らを攻撃するために北朝方の日向国大将畠山義顕(直顕)に属して「飫肥南北・櫛間院」に向かったところ、盛忠は降参したという(同年七月七日「日下部盛連着到状」郡司文書)。貞和三年(一三四七)五月二七日、島津道鑑(貞久)は、四国・中国の海賊三〇艘余りが当郷内目井めい(現南郷町)から大隅国肝属きもつき内之浦うちのうら(現鹿児島県内之浦町)王崎に向かったとの野辺盛忠の知らせを受けて、重久氏に出陣を求めている(「島津道鑑軍勢催促状」重久文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報