日本歴史地名大系 「南院跡」の解説 南院跡みなみのいんあと 京都市:下京区稚松学区上柳町南院跡「拾芥抄」に「六条北(南)烏丸西、小一条院御領」とある。六条南院ともよばれた。「拾芥抄」の本文に誤りがなければ六条中院と同じ場所となるが、院名のとおり六条大路の南とするなら、大中臣輔親の六条院と同位置となる。同書にいう小一条院とは、三条天皇の第一皇子敦明親王のことで、三条天皇が帝位を一条天皇第二皇子敦成(後一条天皇、母は藤原彰子)に譲る際に、藤原道長は後一条の弟敦良を皇太子にたてようとしたが、後一条はそれを拒否、敦明を皇太子と定めた。しかし寛仁元年(一〇一七)三条上皇の死後、敦明は春宮を辞し、敦良が立坊。敦明には院号と年官年爵が下された(大鏡裏書)。 南院跡なんいんあと 京都市:中京区壬生村南院跡「拾芥抄」に「四条北壬生西、是忠親王家」とあって、光孝天皇の第一皇子是忠親王の邸宅であったことが知れる。この地は現在壬生坊城(みぶぼうじよう)町西南、四条通、坊城(ぼうじよう)通、壬生川(みぶがわ)通に囲まれた地域に比定できる。是忠親王は貞観一二年(八七〇)二月一四日にほかの親王一四人とともに源姓を賜った(三代実録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by