上柳町(読み)かみやなぎちよう

日本歴史地名大系 「上柳町」の解説

上柳町
かみやなぎちよう

下京区諏訪町通六条下ル

南北に通る諏訪町すわんちよう通を挟む両側町。町の北寄りを東西に六条通(旧六条大路)が通る。

平安京の条坊では左京七条三坊四保九町北側にあたる。院政期以前は、神祇伯大中臣輔親邸の六条院があった(拾芥抄)。院政期には鳥羽院の六条殿が当町にあり、「本朝世紀」仁平元年(一一五一)一〇月一八日条に「天晴、丑剋、小六条皇居焼亡、放火云々、即行幸於六条烏丸御所院御領、」とみえる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「堂前一丁目」、寛文後期洛中洛外之絵図には「門跡寺内」とあり、元禄末期洛中絵図以降、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図に「上諏訪丁」とみえている。


上柳町
かみやなぎちよう

下京区楊梅通新町東入

東西に通る楊梅ようばい通を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京六条三坊二保六町南側の地。平安時代、当町全域は慶滋保胤池亭ちていの地にあたっていた(拾芥抄)

寛永一八年(一六四一)島原が成立するまでの間、六条柳町あるいは六条三筋町と称する遊郭であった。

寛永一八年以前平安城町並図には、当町と蛭子えびす町の一部、銭屋ぜにや町の町域を総じて「けいせい(傾城)町」と記しているが、寛永一四年洛中絵図には「柳町上丁」とみえる。当町は現在まで柳町という遊郭の名残をとどめる町名が伝わっているが、寛文後期洛中洛外之絵図には「上ノ三筋町」との記載もみえる。


上柳町
かみやなぎちよう

東山区新道通団栗下ル一丁目

新道通に東面する。北は団栗辻子どんぐりのずし。寛保初京大絵図に「上ヤナキ丁」と記され、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「宮川筋の東の通、団栗辻子下ル西がは、上柳町 此町東側に建仁寺町へ出る細道有」、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」に「(新道通)どんぐり下ル上柳町」とある。

吾妻鏡」文治二年(一一八六)七月二七日条には、平氏没官領の一つとして、「時政 一所綾小路北河原東景高領」とみえる。


上柳町
かみやなぎちよう

下京区仏光寺通烏丸東入

東西に通る仏光寺ぶつこうじ(旧五条坊門小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では町の北側が左京五条三坊四保一五町の南、南側同三保一四町の北にあたる。平安時代中期以降は五条坊門東洞院大路西の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図では「くぎかくし町」とあるが西隣の現釘隠町の誤記であろうか。寛永一八年以前平安城町並図では「植柳町」、寛文後期洛中洛外之絵図では「上柳町」とみえ、以後、変更はない。


上柳町
かみやなぎまち

[現在地名]福知山市字上柳

由良川堤防に沿う町筋で、南は呉服町ごふくまち、北は下柳町に続く。京街道沿いの両側町。城下町建設当初からの町であるが、有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図では北の下柳町を含めて柳町とあり、上下区別がない。町名の由来はこの付近に柳の木が多かったからとも伝える。

町が上下に分れたのは江戸中期頃で、その境をなす付近は東に由良川の船着場下船渡しもふなどがあり、そこより西へ通じる街道は天田郡西部へ続くため、水陸交通の要地とされた。


上柳町
かみやなぎちよう

[現在地名]中区上幟かみのぼり町・のぼり町・橋本はしもと

広島城郭の東側、京橋きようばし(神田川)との間につくられた武家屋敷町のうち、その最も東側に通された柳町の筋に面し、その中ほどを直交する山陽道沿いの町地橋本町を境に北側の町。南は下柳町に続き、西は幟町に接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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