一条(いちじょう)天皇の中宮、上東門院。道長(みちなが)の長女。母は源雅信(まさのぶ)の女倫子(むすめりんし)。999年(長保1)一条天皇の女御(にょうご)となり、翌年立后。天皇にはこれより先、藤原道隆(みちたか)の女定子(ていし)が中宮でおり、二后併立となったため定子を皇后とし、彰子を中宮とした。1012年(長和1)皇太后、18年(寛仁2)太皇太后宮となり、26年(万寿3)出家。院号の宣下があって上東門院となった。30年(長元3)法成寺(ほうじょうじ)無量寿院のそばに東北院を建立した。後一条(ごいちじょう)、後朱雀(ごすざく)院をはじめ、父道長、妹妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれたため、長命をかえって悲しんだようすが『栄花物語』などにみえる。承保(じょうほう)元年10月3日、法成寺阿弥陀(あみだ)院で87歳で薨(こう)じた。
[山中 裕]
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…平安中期の皇后。藤原道長の長女。名は彰子。法名清浄覚。999年(長保1)一条天皇に女御として入内,翌年中宮となり敦成(後一条天皇),敦良(後朱雀天皇)両親王を生んだ。紫式部が彰子に仕えたことは有名。1012年(長和1)天皇の死とともに皇太后,26年(万寿3)出家して門院号を受け,晩年は法成寺内に東北院を建てて住み,大女院と呼ばれ,国母と仰がれた。聡明・穏良の人柄でもあったが,晩年は肉親に多く先立たれて寂寥の影が濃い。…
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