古内村(読み)ふるうちむら

日本歴史地名大系 「古内村」の解説

古内村
ふるうちむら

[現在地名]泉市古内・加茂かも二―三丁目・同五丁目・長命ちようめいおか一―二丁目

村の南、七北田ななきた川の右岸に位置し、北西部は平坦で南東河岸段丘に立地。一部は七北田川を越えている。北を除く三方上谷刈かみやがり村に囲まれ、南東は高森たかもり山に続く。地名は下総国豊田とよた郡古内村の地頭伊賀守義武の子孫が奥州に下って国分氏に仕え、当地に住んだことからついたという(伊達世臣家譜)。平姓国分系図(「宮城県史」所収)によると、国分氏一三代盛綱の末子長時は、弘治元年(一五五五)国分氏の臣古内重時の養子となって家を継ぎ、「国分庄古内村」にいて二〇〇町を領した。のち宗重を名乗る。「伊達世臣家譜」によると、江戸時代には古内氏は四〇〇石を知行。当村に同氏の居屋敷と侍屋敷五軒があった(「宮城郡国分屋敷銘委帳」生江恒保家文書)


古内村
ふるうちむら

[現在地名]山田町古内

利根川の支流黒部くろべ川の上流に位置し、東・北・西を府馬ふま村に囲まれる。南は志高しだか村。慶長一五年(一六一〇)長岡ながおか浅間せんげん大明神(現稲葉山神社)本社建立の棟札に村名がみえる。天正一八年(一五九〇)に与えられた旗本菅沼氏の知行地のなかに古内村が含まれていたと思われ、寛永一〇年(一六三三)または元禄一三年(一七〇〇)には旗本中根氏、寛文三年(一六六三)には旗本三宅氏、元禄一〇年または同一四年には旗本新見氏が知行地を与えられた(寛政重修諸家譜)。慶長四年の鳥居元忠の検地により高一八一石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)元禄郷帳では高二六四石余。元禄一三年頃の下総国各村級分では前記旗本四氏と幕府領の五給で、この五給のまま幕末に至る(旧高旧領取調帳など)


古内村
ふるうちむら

[現在地名]十文字町佐賀会さがえ

二井田にいだ村の西、羽州街道に沿う。南を皆瀬みなせ川が西流、雄勝おがち岩崎いわさき(現湯沢市)との郡境をなす。村南に羽州街道の岩崎渡があり、洪水により渡船不能の時は横手まで注進するという(秋田風土記)。「梅津政景日記」の元和七年(一六二一)七月二六日条に「古内村開ノ米」四五石三斗六升を院内銀山いんないぎんざん(現雄勝郡雄勝町)に納入する記録がみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に古内新田村五一八石と記すが、享保一四年(一七二九)平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、本古内村(古内村)新古内村の両村をまとめたことがわかり、「正保元禄誤新田出」と付記している。


古内村
ふるうちむら

[現在地名]明野町古内

小貝こかい川左岸の低地にあり、北は下川中子しもかわなご村、東は竹垣たけがき村。明治二年(一八六九)の村鑑帳(広瀬家文書)によれば、慶長一二年(一六〇七)に浅野采女正の検地が行われ、寛永六年(一六二九)に旗本斎藤佐渡守領となり、同一二年と寛文四年(一六六四)に新田の改出が行われた。元禄郷帳の村高は四二一石余で、幕末は天領六石余、旗本斎藤氏領五〇三石余、願行がんこう寺領一〇石余、八竜神社領三石余、八幡神社領三石余、わし神社領二石余、薬師堂領三石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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