山田町(読み)やまだまち

日本歴史地名大系 「山田町」の解説

山田町
やまだまち

面積:五一・五四平方キロ

香取郡の中央部やや東寄りに位置し、東は東庄とうのしよう町・干潟ひかた町、西は栗源くりもと町・多古たこ町、南は八日市場市、北は小見川おみがわ町に接する。北部は沖積平野の低地が続き、役場の位置する中心部は標高四〇―五〇メートルの台地状の地形となっている。低地部を水源の一部とする黒部くろべ川は利根川に合流し、一方台地部の小河川は栗山くりやま川を経て太平洋に注いでいる。町内に鉄道は通っていないが、太平洋側から利根川近辺に抜ける要所として県道が整備されている。平成二年(一九九〇)には二千七一一世帯、人口一万一千九二六で減少傾向にある。神生の向油田かんのうのむかいあぶらだ貝塚からは石製品・骨角器・貝製品など約二千点に及ぶ遺物が出土している。古代には下海上国造の支配下にあり、黒部川流域の北部から東部にかけては「和名抄」にみえる海上うなかみ麻続おみ郷・布方ふま郷・軽部かるべ郷に属し、栗山川水系にあたる南西部は匝瑳そうさ日部くさかべ郷・珠浦たまうら郷に属したとされる。


山田町
ようだまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう二―三丁目

横近習よこきんじゆ町の南に並行する東西の通りの町人地。下府中二三町の一町で、さん土居内どいない町に属する。西は竪近習たつきんじゆ町とやなぎ町の境、東はたくみ町に接し、その間の魚町うおまち通・穴山町あなやまちよう通と交差する一丁目・二丁目・三丁目からなる。町名は初め伊勢いせ町と称し(寛永一三年「柳町伝馬請負証文」県立図書館蔵)、この町名は伊勢社(横近習町の大神宮)御旅所の所在によるという。宝永二年(一七〇五)甲府藩主柳沢吉保の子吉里の官名伊勢守の称を避け、伊勢の山田を受けて山田町と改めた。その後、柳沢氏の転封後の享保一九年(一七三四)に当町は以前のように伊勢町の名乗を願出たが、みどり町もかつて川尻かわじり町と称したことから変更を申出るかもしれず、軽々には成りがたいこととして願意は受けいれられなかった(「当座御用日記」同館蔵)。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると北側一八〇間半・南側一八六間。


山田町
やまだちよう

面積:六二・二〇平方キロ

北諸県郡の西部南端、都城盆地の北西部に位置し、北西は西諸県郡高原たかはる町、北東は高崎たかざき町、東・南・西は都城市に接する。霧島山系より西から東にかけて五条の丘陵台地が延び、その合間を大淀川水系の木之川内このかわうち川・山田川・丸谷まるたに川・渡司わたし川などが東流し、集落はそれら河川の形成する河岸段丘上に形成されている。丘陵台地と平野部には畑地と田地が広がり、北西部の山林地はスギ、ヒノキで覆われている。町域の東端を南北にJR吉都線(えびの高原線)が走り、南東端に谷頭たにがしら駅がある。また最東端を九州縦貫自動車道宮崎線がかすめる。

遺跡の調査は進んでいないが、山田川によって形成された河岸段丘上の中村なかむら遺跡より縄文時代後期から晩期にかけての遺物と竪穴住居跡二基が確認されている。出土した土器は南九州特有の貝殻文系土器や西北九州の磨研系土器が中心。


山田町
やまだまち

[現在地名]高知市はりまや町三丁目

蓮池はすいけ町の東部北側の町で、西は廿代にじゆうだい町、東はしん町地区境の横堀、北側をくち川が東流する。高知城下建設にあたり香美郡山田(現土佐山田町)の市町の住民を移住させてつくった町という。町の東部横堀に沿う一画に藩の獄舎があったためにろうノ町ともよばれた(高知市沿革略志)。この獄舎は明治四年(一八七一)小高坂こだかさ新寺しんてら町に移される。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西一一八間、南北四一間、家数七一。


山田町
やまだまち

[現在地名]山崎町山崎

山崎城下一一ヵ町の一つ。ほん町の東に接する。文政四年(一八二一)の伊能忠敬輿地実測録(内閣文庫蔵)に本町―山田町間は三町とある。天正年間(一五七三―九二)龍野城主となった木下勝俊の命により山崎村・山田村が一筋の新町となっていった(一一月一六日「木下勝俊判物」山崎八幡神社文書など)。慶長国絵図に山田町がみえる。当町は本町との境にある熊鷹くまたか(角鷹門)から東へ清水しみず見附みつけ門まで続く両側町で(文化一四年「山崎町町屋配置図」山崎町史)、地子米は寛文一二年(一六七二)・享保一五年(一七三〇)とも一二石余(山崎町史)


山田町
やまだまち

[現在地名]山田町中央町

現在の中央ちゆうおう寺小路てらこうじ角から町役場に至る八幡はちまん町角までの間に形成された町場。「三閉伊路程記」に「下山田、飯岡との村境、後の山に水天宮の社有、五拾九間程にて山田町の境也、此処より寺小路と云横道あり、此小路を登りて龍昌寺と云寺有、山田町は間数三町にもたらぬ町なれども、下山田、飯岡とも引続町屋作にて、家数四百八拾軒有」とある。当初は表口五間・奥行二〇間の町屋敷が、片側二六戸、両側で五二戸設置され、三日と一三日の二度がなか町、二三日一度がみなみ町と、月三度の市が開かれたという。


山田町
やまだまち

面積:二六三・五四平方キロ

下閉伊郡の東南端に位置し、東は太平洋に面し、西から南は上閉伊郡大槌おおつち町、北は宮古市に接する。北部豊間根とよまね荒川あらかわ地区から西部にかけての山岳地帯と、山田湾および船越ふなこし湾に面した臨海地帯からなる。豊間根・荒川地区は津軽石つがるいし川の上流、豊間根川・荒川川の流域にあり、古宿ふるしゆく森・弥惣やそう森・山母やまはは森などの深山を抱え林業を主とした。臨海部は古くから開け、織笠おりかさ・山田などにはすでに近世初期から市立てが行われており、山田には盛岡藩の御蔵が設置された。周辺に豊かな漁場をもち、そのうえ絶好の浦湊に恵まれ各種漁業が盛んで、長崎・江戸との間には海産物を主とする交易も行われた。近年漁業と観光を柱とする新しい町づくりがはじめられ、漁業ではホタテを主とする養殖が好成績をあげている。


山田町
やまだちよう

[現在地名]中区にしき三丁目

朝日あさひ町と北に接続し、南は碁盤割外で武家町へと続く。本重もとしげ町筋と広小路ひろこうじとの間の二丁、および広小路伊勢いせ町筋から久屋ひさや町筋までをさす(町名起因並町家由緒)。もとは前津まえづ村のうちで、慶長一八年(一六一三)清須きよすから引越して武家屋敷が作られた。万治三年(一六六〇)の大火で屋敷が焼失したのを機に、東新ひがししん町・西新にししん(現東区)に移し、跡地は広小路の拡幅で立退かされた町人に住まわせた。


山田町
やまだちよう

中京区油小路通蛸薬師下ル

南北に通る油小路あぶらのこうじ(旧油小路)を挟む両側町。南側を錦小路にしきこうじ(旧錦小路)、北側を蛸薬師たこやくし(旧四条坊門小路)が通る。

平安京の条坊では、町の西側は左京四条二坊三保一一町の東、西側は左京四条二坊三保一四町西。平安中期以降は油小路錦小路の北にあたる。

また、北野天満宮史料の酒屋交名によると、当町には応永三三年(一四二六)二月一六日当時、「頼貫 宗賢 錦小路油小路東北頬」と「へひ 錦小路油小路北東頬」という酒屋が二軒存在した。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「山田丁」とあり、その後変化はない。


山田町
やまだまち

[現在地名]加賀市大聖寺山田町だいしようじやまだまち

大聖寺町のほぼ中央、藩邸からまっすぐ東に延びるほん町・きよう町に対し、直角に南北方向に並ぶ町人町で、北は京町・てら町、南は鍛冶かじ町の願成がんじよう寺。寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)にも町名がみえ、町役は九分役。大聖寺川はもと当町の裏側のさいが淵を流れており、延宝元年(一六七三)の大聖寺川改修は当地付近の越前屋義兵衛・こん屋儀右衛門・吉崎屋勘六ら五名の陳情によるもので(江沼志稿・大聖寺藩史)、すでに発言権をもった有力町人の存在が知られる。


山田町
やまだまち

[現在地名]小樽市山田町・東雲町しののめちよう相生町あいおいちよう

明治一九年(一八八六)頃より同三二年まで存続した町。相生町の北西にある。明治一五年山田吉兵衛ほか二名により相生町から水天すいてん宮の西を経てさかい町の於古発おこばち川辺りに至る道路開削が出願、これが認可されて着工、同一六年二月に竣工している(小樽市史稿本)


山田町
やまだちよう

[現在地名]西区江戸堀えどぼり三丁目・京町堀きようまちぼり三丁目

道空どうくう町の西に延びる両側町で、明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では「いせや町」、明暦―寛文年間(一六五五―七三)の近世大坂地図では「伊勢ヤ丁」、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図では山田町と記される。町名は伊勢国山田町(現三重県伊勢市)と関係があると思われる。


山田町
やまだちよう

[現在地名]高崎市山田町

明治一〇年(一八七七)までに成立した町。江戸時代は城郭の北東、遠堀を挟んで椿つばき町・九蔵くぞう町・鉦打かねうち町の北側の地域にあたる。明治元年遠堀外側に隣接する赤坂あかさか村の田地を買上げ、士族の家屋赤坂郭を新築した。「更正高崎旧事記」に「旧城郭ノ艮位ニ当ル、艮ハ山也、依テ山ヲ冠トナス、且同郭ハ赤坂村ノ田地ナルヲ以テ、山田町ト号スル也」とある。


山田町
やまだちよう

東山区新宮川町五条上ル二丁目

新宮川しんみやかわ(宮川筋東裏通)に位置。正徳二年(一七一二)開発の新門前六町の一。正徳四年洛外町続町数小名家数改帳(荻野家文書)に「拾壱軒 同(建仁寺新門前) 山田町」とある。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「鴨川筋東へ二すじ目」として「其(西御門町)南町 山田町」と記し、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」の表記は「宮川筋東裏筋」として「此(西御門町)下ノ町山田町」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田町」の意味・わかりやすい解説

山田〔町〕
やまだ

岩手県東部,太平洋の山田湾に臨む町。宮古市の南に位置する。1889年町制。1955年船越村,織笠村,大沢村,豊間根村の 4村と合体して現町域となる。町名は中世以来の地名による。明和~天明年間(1764~89)には干しあわび,いりこなど海産物を江戸や長崎に出荷して繁栄した。湾内ではノリ,カキ,ワカメ,ホタテガイなどの養殖が行なわれる。港の修築に伴い,製氷,冷凍,魚市場などの施設が整備された。船越大島タブノキ,千畳敷や大釜崎断崖,赤平金剛と呼ばれる赤平断崖など観光資源に恵まれ,海岸一帯は三陸復興国立公園に属する。沖合いは地震多発地で,1896年の明治三陸地震津波,2011年の東北地方太平洋沖地震に伴う津波などにより大きな被害を受けた。海岸線に沿って JR山田線,国道45号線が通る。面積 262.81km2。人口 1万4320(2020)。

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