日本歴史地名大系 「吉松村」の解説 吉松村よしまつむら 大分県:東国東郡安岐町吉松村[現在地名]安岐町吉松吉松川・前谷(まえたに)川が南東流し、瀬戸田(せどた)村で安岐川に合流する。前谷川の上流七郎(しちろう)集落と下流の一(いち)ノ瀬(せ)集落は「豊後国志」に吉松村の枝村と記される。東は小城(おぎ)村(現武蔵町)、北は山嶺を境に志和利(しわり)村・吉広(よしひろ)村(現同上)、南は瀬戸田村。安岐郷吉松名の遺称地。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高七五三石余、家数七五、うち百姓二〇、隠居・名子・下人・庭屋・へ屋・牛屋五三、人数一三一、うち百姓二〇・名子九、牛三二・馬三。正保郷帳では安岐郷に属し、田方四一八石余・畑方一二四石余で、茅山有・柴山有・日損所・新田有と注記される。天保郷帳では高八二四石余。 吉松村よしまつむら 熊本県:鹿本郡植木町吉松村[現在地名]植木町亀甲(かめこう)南は岩野(いわの)山、東は合志(こうし)川、西は平尾(ひらお)山を境に内(うち)村に、北は今藤(いまふじ)村に接し、西辺を豊前街道が、中央を来民(くたみ)町道が通る。「八代日記」天文三年(一五三四)九月二一日条に「義宗(菊池義武)様吉松と申候所まて御出張」とある。「覚兼日記」天正一二年(一五八四)九月一三日条によると、龍造寺勢を追うべく肥後北部に進出した島津義弘らの軍勢が当地に着陣している。これ以来、島津勢は山本(やまもと)郡を勢力下に置き、吉松はその重要な陣所となった。 吉松村よしまつむら 大分県:宇佐市旧四日市町地区吉松村[現在地名]宇佐市吉松城(じよう)村の南西、宇佐平野のほぼ中央に位置し、南は四日市村、西は高(たか)村。平田(ひらた)別符吉松名の遺称地。正平一一年(一三五六)三月七日宇佐宮前大宮司宇佐公浦は「平田別符吉松名地頭職」などを子の六郎公令に譲っている(「宇佐公浦譲状」広崎文書)。のち公令の子孫は吉松氏を名乗っている(宇佐郡地頭伝記)。天正八年(一五八〇)閏三月一九日の田原紹忍書状(大友家文書録)によると、「吉松名之内唐皮七段」の下作職を前々から有していた「平田村光教寺」などが波多統任に与えられている。 吉松村よしまつむら 福岡県:太宰府市吉松村[現在地名]太宰府市吉松・長浦台(ながうらだい)一丁目・同四丁目・青葉台(あおばだい)一―四丁目国分(こくぶ)村の南西、北西流する御笠(みかさ)川左岸にある。南東部で大佐野(おおざの)川が御笠川に合流する。北は下大利(しもおおり)村(現大野城市)。小早川時代の指出前之帳では吉松村の田一六町六反余(分米一九六石余)・畠三町六反余(分大豆一七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は三七四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三八一石余、家数一九・社二、人数一一八(田圃志)。石高書上案の郡帳高も三八一石余。元禄国絵図には吉松村の内として薗田(そのだ)村が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by