日本歴史地名大系 「太宰府市」の解説 太宰府市だざいふし 面積:二九・六一平方キロ福岡市の南東、福岡平野と筑紫(ちくし)平野の中間に位置し、南に背振(せふり)山塊、北に四王寺(しおうじ)山脈、北東に宝満(ほうまん)山が迫る。ここには二日市(ふつかいち)低地帯とよばれる幅二キロほどの平地があり、北の博多湾へ注ぐ御笠(みかさ)川・鷺田(さぎた)川と南の有明海へ注ぐ宝満川の分水嶺となっている。市北東山間に発した御笠川はやや南西方に流下したのち向きを西、さらに北西へ転じ、鷺田川を合せて北西流する。基盤層は花崗岩で、標高三五メートル前後の位置に阿蘇四火砕流に由来する第四紀層の粘質土壌が部分的に残存する。ほぼ中央部の二日市低地帯を北西から南東にJR鹿児島本線・西鉄天神大牟田(てんじんおおむた)線、国道三号、九州縦貫自動車道が通り、天神大牟田線二日市駅からは北東へ太宰府天満宮門前に至る西鉄太宰府線が分岐する。〔原始〕旧石器時代の遺跡は山裾に残存する第四紀層の周辺で発見され、北部の成屋形(なりやかた)遺跡(水城二丁目)ではナイフ形石器、南部の前田(まえだ)遺跡ではナイフ形石器と三稜尖頭器、脇道(わきどう)遺跡(大佐野)では台形石器が出土している。宝満山の南西側斜面にはレス(黄砂)の堆積層があり、その二次堆積層から横長剥片を用いたナイフ形石器が出土している。縄文時代には高雄(たかお)地区や佐野(さの)地区の低位段丘面上に早期押形文土器の文化層があり、佐野地区のカヤノ遺跡(大佐野)ではその真上が晩期の包含層であることから、この間の堆積層が流出した可能性も考えられる。福岡市東区の奈多(なた)砂丘で確認された約六〇〇〇年前のアカホヤ火山灰は当地域では未発見で、早期から晩期の間が不安定な環境であったと考えられる。北の大城(おおき)山裾や南の宮(みや)ノ本(もと)丘陵では晩期前半頃からの石鏃や縦長剥片の石器、土器片が散見され、丘陵地での食料獲得が積極的に行われたものと思われるが、いまだ拠点的な集落は発見されていない。弥生時代前期前半に佐野地区の前田遺跡では丘陵裾の緩斜面に直径約三〇メートルの環状集落が形成された。前期後半には平地では同地区原口(はるぐち)遺跡(向佐野)、国分(こくぶ)地区の国分正尻(こくぶしようじり)遺跡(国分一丁目)や市域中央部にある洪積台地上の般若寺(はんにやじ)跡など、さまざまな立地で集落が営まれている。中期には国分松本(こくぶまつもと)遺跡で環濠と考えられる施設をもつ拠点的な集落が現れるが、後期には引継がれない。佐野地区にも中期の遺構が散在するが、大規模な展開にまでは至らず、玄界灘方面と有明海方面との分水嶺を越える市域南東の辺りまでは集落の形成と発展は低調で、弥生中期における春日丘陵と筑紫野(ちくしの)丘陵との領域(小国家としての「クニ」)の狭間となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太宰府市」の意味・わかりやすい解説 太宰府〔市〕だざいふ 福岡県中部,福岡平野と筑紫平野の間にある市。 1955年太宰府町と水城村が合体。 1982年市制。博多湾に注ぐ御笠川の上流域にあり,中心地区は太宰府天満宮の門前町として栄えた。福岡市の拡大により衛星都市化が進み,住宅団地や大学などの建設が著しい。大宰府跡 (国指定特別史跡) ,筑前国分寺跡のほか,戒壇院,観世音寺,太宰府天満宮など国宝や国の重要文化財を数多く所蔵する社寺が多い。また太宰府天満宮のクス,ヒロハチシャノキは国の天然記念物。周辺は太宰府県立自然公園に属し,九州国立博物館,九州歴史資料館がある。九州自動車道が通る。面積 29.60km2。人口 7万3164(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報