加茂村(読み)かもむら

日本歴史地名大系 「加茂村」の解説

加茂村
かもむら

[現在地名]三加茂町加茂

吉野川南岸に位置し、東は中庄なかしよう村、西は東井川ひがしいのかわ(現井川町)。吉野川に沿って沖積地が広がり、北対岸の足代あしろ(現三好町)との間にははら渡があった。古代の三好郡三津みつ郷の地に比定され、条里の痕跡もみられる。中世には福田ふくだ庄・稲用いなもち保が成立していた。

近世初頭は加茂村と稲持いなもち村の二村であった。賀茂・鴨とも記され、近世後期には中加茂・東加茂・西加茂の三村、あるいは東加茂・西加茂の二村で把握される場合もあった。天正一七年(一五八九)一〇月吉日の賀茂村検地帳(三加茂町立歴史民俗資料館蔵)では田畠惣都合一八八町二反余・米惣都合一千九一二石余、屋敷六町六反余・米六八石余。家数六四、蔵入分一八四石余、給知分一千七六三石余(給人二三)。同年同月日の稲持村検地帳(三加茂町史)では田二二町二反余・米二九二石余、畠一三町余・米一〇七石余、屋敷三町三反余・米二九石余、家数二四。慶長二年(一五九七)の分限帳には賀茂稲持とみえ、八六一石余が稲田小八郎、七七六石余が傍木半兵衛の知行。なお同七年当時、井川村(現井川町)のうち現高野谷こうやたに以東の地は当村に編入されていたともいう(三加茂町史)正保国絵図には加茂村として高二千三四二石余。ほかに加茂村のうちとして加茂山と記す。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では加茂村として田方一千三四五石余・畠方九九六石余。

加茂村
かもむら

[現在地名]鶴岡市加茂

高館たかだて山の西麓にあり、北は金沢かねざわ村。南東の加茂丘陵を越えて加茂街道が大山おおやま村に通ずる。地名は、古くは「顔港」といったとも(出羽国風土略記)、京都の賀茂かもに由来するともいわれるが(加茂港史)、定かでない。西に開いた小湾にある加茂港を中心とする集落。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に賀茂村とみえ高一三二石余で、ほかに寺社領がある。寛永元年庄内高辻帳では二七四石余。寛永三年庄内高辻帳では一三二石余。正保郷帳では田高三六石余・畑高九六石余、社領三石余、芝山がある。明暦二年(一六五六)の加茂組未之納方土目録(加茂地区文書)では高一三四石余、免七ツ二分九厘と高い。複雑な地形であるため大目にみる縄延があったらしいといわれる(加茂港史)。なお弍郡詳記によれば、当村など日本海に面した加茂組の五ヵ村の免は七ツ三分以上と周辺の村より高くなっている。

町づくりは舟の繋場であり漁師町でもあった港北側のとまり町から始まったと伝えられ、慶長一二年(一六〇七)には東の山手にしん町が最上氏により諸役などを三年間免除されて進められた(「古事録」光丘文庫蔵)されて進められた。同一九年には南側山づたいにおか町が町割され、諸役などは同年から三年間免除、地子は三石と決められた(「諸役免除状」戸塚文書)

加茂村
かもむら

[現在地名]両津市加茂歌代かもうたしろえびす春日かすが

加茂湖岸北西部に位置する。北は向高野むかいごうや台地で梅津うめづ村。南は釜屋かまや村、南西は陣の腰じんのこし大平だいらの台地で長江ながえ村と境する。東はわずかに両津湾に面する。「佐渡国雑志」には「当村海辺に無之、夷新田より山之方ニて往来不仕処」とある。集落は加茂湖に注ぐ外城とじよう川の流域、東岸台地上にある加茂城跡付近に新町しんまち、後方に上野かみの、南西に河内かわち、段丘下の東側には福浦ふくら、北側段丘下の梅津寄りに海に面して突出する谷地やちと広範囲に点在し、歌代村の集落が入組む。「和名抄」賀茂かも郷の遺称地であろう。康永三年(一三四四)一一月一六日足利尊氏寄進状(園城寺文書)によれば、飛騨国の所領の替地として近江園城おんじよう寺に佐渡国の賀茂保地頭職などが寄進された。

寛永(一六二四―四四)頃から村の後方台地上に鷺野さぎの新田の開発が進められた。元禄七年(一六九四)の検地帳(加茂歌代区有)では田九九町二反余・畑四一町二反余で、名請人二二七人。

加茂村
かもむら

[現在地名]芝山町大里おおさと

高谷たかや川上流域に位置し、南は白升しらます村。多古たこ道が通り、同川右岸に西加茂村、左岸に東加茂村がある。郷帳類では東・西に分けて記されるが、組合村や宿継場としては加茂村として扱われた。古代の武射むしや加毛かも(和名抄)の遺称地とされる。文明一一年(一四七九)一一月二八日の常顕宛行状(東京大学史料編纂所影写本香取文書)に「武射賀茂郷上吹入村」とみえる。飯櫃いびつにあったという宝城寺薬師如来像(浄慶作)の永禄一〇年(一五六七)二月の銘文に「武射郡賀茂郷飯櫃村善応院」とあり(総州山室譜伝記)賀茂かも郷は高谷川中流域まで含んだと考えられる。字りゆうやず一帯に笹山城跡があった。

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に賀茂村とみえ、高四五〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳などによると山田組に属し、旗本天野領高一八〇石、同井戸領高一六〇石、同揖斐領高六〇石。揖斐氏は慶長七年(一六〇二)からの知行と考えられ幕末に至る。

加茂村
かもむら

[現在地名]川西市加茂一―六丁目・下加茂したかも一―二丁目・栄根さかね二丁目・南花屋敷みなみはなやしき二―三丁目・久代くしろ二―四丁目

栄根村の南、最明寺さいみようじ川下流域の台地上に古くから開けた上加茂うえがもと、東部の猪名いな川沿い平地部の下加茂からなる。式内社かも神社が台地上に鎮座、同社を中心に弥生時代の加茂遺跡がある。当地から東は瀬川せがわ半町はんぢよう(現大阪府箕面市)に通じ、西は小浜こはま(現宝塚市)生瀬なまぜ(現西宮市)の宿駅に通じる古くからの要路(有馬街道)がある。地内にいちつぼの地名がある。中世の賀茂かも村・賀茂庄の遺称地。正安二年(一三〇〇)七月一〇日の代官光末寄進状(多田神社文書)に当地の「阿弥寺」がみえ、湯屋谷東谷ゆやたにひがしたにの田地が経田として寄進されている。阿弥陀寺境内に永正一四年(一五一七)銘の石造塔婆がある。上加茂にある中世城館の跡は加茂城とよばれ、付近に城屋敷しろやしき城垣内しろかいとなどの字が残るが、遺構は残らない。

加茂村
かもむら

[現在地名]菊川町加茂

半済はんせい村・堀之内ほりのうち村・西方にしかた村の南、菊川右岸に位置し、同川支流の西方川が流れる。北西部が山地のほかはおおむね平坦である。賀茂神社があり、同社の由来書にかつては笠原かさはら長尾ながお村と称していたが、のち神号により加茂と改称したとある。文永二年(一二六五)二月七日の遠江国三代御起請地并三社領注文案(教王護国寺文書)に「賀茂庄 下賀茂」とみえ、遠江国に賀茂庄が存在し、京都下鴨神社(賀茂御祖神社)領であった。加茂はこの賀茂庄とかかわるかと推測されるが、下鴨社領河村かわむら庄の庄域に重なり、賀茂庄は河村庄をさす可能性が高い。

天正一六年(一五八八)横須賀よこすか(現大須賀町)城主大須賀五郎左衛門は加茂郷一〇〇石を伊勢神宮へ寄進している(「加茂村庄屋手控」清水家文書)。慶長四年(一五九九)検地があり、田畑合一八三町六反余、分米高合一千九五〇石余と定まる(清水家文書)

加茂村
かもむら

[現在地名]阿南市加茂町

吉井よしい村の西に位置し、北は那賀なか川を挟んで深瀬ふかせ村。村の中央部を那賀川の支流加茂谷かもだに川が北流し、北端で那賀川に合流する。康和五年(一一〇三)八月一六日の大滝寺所領注進(前田文書)に大滝(太龍)寺の所領として「加毛」とみえる。永徳二年(一三八二)「那賀山庄内賀茂和食郷並関等」が興聖こうしよう(現京都市右京区、至徳元年足利義満により宝幢寺と改称)に寄進されている(一一月二四日「足利義満御内書」鹿王院文書)。文明一〇年(一四七八)五月二八日、宝幢ほうどう寺領賀茂などが寺家に返付されている(「足利義政御判御教書」同文書)。なお「阿波国太龍寺縁起」によると天長二年(八二五)六月一三日、淳和天皇の宣旨により金剛座主に対し、東は「汗日野」、南は鷲敷わじき(現鷲敷町)地頭職、西は若杉わかすぎ村一円、北は賀茂郷地頭職の範囲を寄進されたという。

加茂村
かもむら

[現在地名]三田市加茂

東野上ひがしのがみ村の北に位置する。東部・中央部はじようおか丘陵地で、麓に灌漑用溜池が多い。北端をくろ川が西流し、地内で青野あおの川に合流、南西端で武庫むこ川に合流する。青野川左岸に河岸段丘盆地が開ける。南西部を丹波への街道が通る。中世、美福門院から七条院―四辻宮善統親王に伝領されたなか(中庄)のうちで、賀茂村とも記される。弘安一〇年(一二八七)一一月一八日の四辻宮善統親王譲状案(東寺百合文書)に「摂津国仲庄賀茂村」とみえ、西山姫宮より譲られた当村が善統親王から深恵に譲られている。永徳三年(一三八三)九月四日、有馬郡分郡守護の赤松義則が赤松氏則(氏範)父子の追善のため中庄内の田地二町を清水きよみず(現社町)に寄進(「赤松義則寺領寄進状案」清水寺文書)、中庄内賀茂村領家方下地の中から上(七斗代)・中(六斗代)・下(五斗五升代)を組合わせ、二町歩分米計一二石四斗五升が打渡され、不作人注文も作成されている(同年一〇月四日「霜台田下地土貢員数注文」同文書など)

加茂村
かもむら

[現在地名]北川村加茂

奈半利なはり川北岸に位置し、対岸は野友のとも村の本村集落、東は同村の久府付くぶつけ集落。集落は山の南側にあり、はるかに土佐湾が望まれる地もある。奈半利村(現奈半利町)の枝村。古くは石清水いわしみず八幡宮の荘園奈半なは庄に含まれた。応永三年(一三九六)の年号のある馬路うまじ金林こんりん寺鰐口銘(古文叢)に「施主鴨氏新左衛門」、同村熊野神社の永正一六年(一五一九)の棟札銘(蠧簡集)に「加茂氏平左衛門尉」などの名がみえ、北方の馬路村に加茂氏がいたことが知られるが、その一族が当地に城を構えていたらしく、城山にあった城の城主は加茂十郎兵衛、あるいは小笹民部と伝える(土佐古城記)

加茂村
かもむら

[現在地名]西郷町加茂

箕浦みのうら村の北西に位置し、集落は深い入江に臨む。「隠州視聴合紀」では鴨里とある。古く箕浦村と一村であったが、慶長一二年(一六〇七)の検地後に分村したという。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田八四石余・八町九反余、畑六石余・五町三反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一六匁・漁請役四四匁・絞油四合役八匁・核苧一貫二〇目役二匁七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分、家数二五(百姓一六・間脇九)のうち御役目屋敷一六、人数一五八、牛・馬各一一、弓・鎗各三、鉄砲一、船数一三。鰤・烏賊・鮑・鯖・海鼠・和布などをとった。加茂明神など四社が鎮座、浄土宗の東福とうふく寺がある。

加茂村
かもむら

[現在地名]津幡町加茂

舟橋ふなばし村の東、加茂川の谷口に位置。賀茂とも記す(仮名付帳など)。正和元年(一三一二)と推定される白山水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「英田村紺一端 賀茂なはてヨリ北大見河」「津幡村紺一端 大田ヨリ北賀茂畷マテ」とみえる。白山本宮の水引神人となった紺掻業者の勧進区域(営業圏か)のうち、最北端に位置する英田あがた村と津幡村の神人の境界であった。当地はかつて京都上賀茂社領で、宝暦二年(一七五二)の横山賀茂神社縁起(加賀史料集成)によれば、同社は天平勝宝五年(七五三)英田郷加茂邑に垂迹し、大同元年(八〇六)金津かなつ鉢伏はちぶせ(現宇ノ気町)に遷座したと伝える。

加茂村
かもむら

[現在地名]春日居町加茂

別田べつでん村・桑戸くわど村の南に位置する。賀茂村とも記される。永禄四年(一五六一)の番帳の二番に「川田之禰宜・賀茂之禰宜」とみえ、当地に鎮座する賀茂春日神社の神官が、川田かわだ(現甲府市)の二宮明神とともに府中八幡神社への勤番を命じられている。しかし天正一一年(一五八三)四月一九日の徳川家康印判状写(賀茂春日神社文書)には賀茂春日神社領のなかに賀茂の名はみえず、同社との関係は不明。同一七年一一月二三日の伊奈忠次神領証文(同文書)によれば、同社神主に宛てて賀茂郷の八四俵一斗余が安堵されている。

加茂村
かもむら

[現在地名]豊橋市賀茂かも

豊川が赤石あかいし山脈中の標高三八二・一メートルの吉祥きちじよう山の先端をかすめて南流する所に標高一二三メートルのてる山がある。この照山と豊川の間に約九〇町歩にわたって条里制遺構が認められたが、昭和三九年(一九六四)からの耕地整理で破壊された。「和名抄」所載八名やな養父やぶ郷の故地と考えられている。また「吾妻鏡」文治二年(一一八六)一〇月一日条に賀茂別雷社領として「参河国小野庄」とある賀茂神社の荘園小野田おのだ庄に属した。

「三河国二葉松」に賀茂村照山古城として「城主不知。

加茂村
かもむら

[現在地名]丸山町加茂

沓見くつみ村の南、丸山川右岸の丘陵と沖積地に立地し、南部を東西に伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。村名は当地鎮座の賀茂(加茂)神社に由来。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高八〇五石余、うち田方は五四一石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では直轄領八〇二石余、加茂明神領三石。同一五年の里見家分限帳では直轄領は二七六石余に減じ、正木環斎知行分五二五石余・加茂明神領三石となっている。元和四年(一六一八)検地が行われた(「検地帳」加茂区有文書)。寛永一五年(一六三八)村高の一部が北条藩屋代忠正領となり、同一九年には旗本松平忠直に一部が与えられた(「寛政重修諸家譜」など)

加茂村
かもむら

[現在地名]小浜市加茂

野木のぎ山の東に位置し、北は新保しんぼ村、北西は竹長たけなが村。賀茂とも記した。野木山の東山麓に字大戸おおどはこヶ岳(現遠敷郡上中町)の北側稜線より西へ延びる山裾に、北より由里谷ゆりだに神良ごうら・加茂・高屋たかや小北こぎた高森たかもりの各字がある。北・東・西の三方を山に囲まれ、緩傾斜して南へ広がる平野の地域を宮川みやがわ谷とよび、中世には宮川庄・賀茂別雷かもわけいかずち社領賀茂庄があった。

加茂村
かもむら

[現在地名]佐川町加茂

日下くさか川上流域を占め、「賀茂村」とも書く。「土佐州郡志」に「在佐川本村北、東限岩目地村本越、西限三野村、南限長竹谷岩目地界及佐川之切塞坂、北限黒岩之二野村、東西二十三町余、南北拾町余」とある。天正一八年(一五九〇)の賀茂村地検帳によれば地積九五町二反余で、このうち片岡領九二町一反余・尾川近沢領二町四反余・佐川番給地ほか六反余で、村内の「末光」「大谷」「カ子チカ」の土居には戦国期以来の片岡氏一門の武士が在地している。

加茂村
かもむら

[現在地名]岡山市加茂

新庄下しんじようしも村の東、津寺つでら村の南東に位置する。古代には都宇郡河面かわも(和名抄)に属し、河面が加茂に転じたという。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に、吉備津彦神社へ「賀茂上下村々在々より一ノミやへ参り候物事」として村の「ミ子・法者衆」が銭・幡・唐布・扇・うちわ・帯など奉納し、神楽を舞ったことが記される。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦後、旗本高松花房領となったと推定され、元和三年(一六一七)花房(榊原)職直が父の遺領のうち都宇郡内で一千石を分知され、当村を分割統治(「寛政重修諸家譜」など)、寛永一五年(一六三八)の花房領徳米目録(花房文書)では鴨村とあって高一千石、徳米六六五石余とある。

加茂村
かもむら

[現在地名]北方町加茂

北方村の北に位置し、糸貫いとぬき川東岸から東に細長い矩形の平坦地に立地。近世までは席田むしろだ郡の最南端に位置した。慶長六年(一六〇一)加納藩領となる。慶長郷帳に村名がみえ、高四三四石余。正保郷帳では田三二六石余・畑一〇八石余。寛文八年(一六六八)から藩主戸田光永の弟、旗本北方戸田光直領となり、幕末に至った。当村は公的には一村であったが、寛永一一年(一六三四)加納藩大久保氏時代、南加茂村・北加茂村に二分されたという。

加茂村
かもむら

[現在地名]植木町豊田とよだ

今藤いまふじ村の東、平井ひらい村の西、吉松よしまつ村の北にあり、豊田川の流域を占め、来民くたみ町道が通る。享保年間(一七一六―三六)の宣紀時代手鑑に村名をみる。正院手永に属し、「国誌」には「賀茂村」と記し「中賀茂村宗方村音学寺村原部村等ノ小村アリ」とある。文政九年(一八二六)の正院手永手鑑によると田二六町三反二畝余・畑二一町五反九畝余、質屋一がいた。

明治七年(一八七四)横尾よこお村とともに豊田村となる。同一一年頃の豊田村の戸数七九・人数三五一、馬五五、米・麦・粟・大豆などを産する。民業戸数は農六六、大工職・桶職各三、水車職・染物職各二(郡村誌)

加茂村
かもむら

[現在地名]加賀市加茂町

大聖寺だいしようじ川と動橋いぶりはし川の間にある平野部の西寄りにあり、西は中代なかだい村。「三州志」によると一向一揆の拠る松山まつやま堡を攻めるため、天正八年(一五八〇)柴田勝家が「鴨野」に布陣している。正保郷帳によると高一千一五三石余、田方六四町五反余・畑方四町六反余、物成高四〇二石余、ほかに新田高四〇四石余(物成高九〇石余)、田方一七町九反余・畑方八町二反。「江沼志稿」では高一千七一六石余、うち新田高七四石、小物成は茶役一匁余、家数七四・人数二三四、馬一〇。灌漑は市之瀬いちのせ用水(水掛高六〇〇石)鹿ししはな用水(同六一〇石)などによった。村の南に前田利常が慶安元年(一六四八)山代やましろ入湯のときに茶水としたという「中納言様清水」があり(加賀志徴)、大聖寺歴代藩主も愛飲したという。

加茂村
かもむら

[現在地名]姫路市飾磨区加茂しかまくかも飾磨区加茂北しかまくかもきた飾磨区加茂南しかまくかもみなみ飾磨区加茂東しかまくかもひがし飾磨区思案橋しかまくしあんばし飾磨区今在家しかまくいまざいけ二―七丁目・飾磨区構しかまくかまえ一―五丁目・飾磨区蓼野町しかまくたてのちよう

飾西しきさい郡に所属。船場せんば川の下流右岸、構村の西に位置する。村全体が平坦な沖積平野に立地し、村内を小さな川が流れ、船場川に合流する。慶長国絵図に「かも村」とみえる。なお地元の口碑などに基づき、近世初期頃まで水田村と称したとする説がある(「飾磨郡誌」など)。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳には加茂村と記され、田方三四六石余・畠方一三石余。

加茂村
かもむら

[現在地名]清水市宮加三みやかみ

駒越こまごえ村の北に位置し、東は海(折戸湾)に面する。北は宮一色みやいつしき村、西は三沢みさわ村。江戸時代の領主の変遷はぞう村に同じ。元禄郷帳では高一二七石余。家数は享保一〇年(一七二五)に一六(清水市郷土研究)。助郷は元禄七年(一六九四)東海道興津おきつ宿の大助郷、享保一〇年から同宿定助郷を勤めている(興津宿助郷帳)。万延二年(一八六一)清水湊内の火振漁を禁止したとき、請書を出している者がおり、村内に漁業従事者がいた(清水市文書)

加茂村
かもむら

[現在地名]出島村加茂

霞ヶ浦に南面し、東は牛渡うしわた村、西は戸崎とざき村。江戸初期に下総関宿藩領となり(寛文朱印留)、貞享四年(一六八七)以降土浦藩領となる(土浦市史)。元禄郷帳の村高は二千二三五石余、幕末は土浦藩領分二千二二七石余、南円なんえん寺領一〇石(各村旧高簿)。寛政二年(一七九〇)の戸数一八七・人数七〇八、明治三年(一八七〇)の戸数一三九・人数七五三(出島村史)

えのき真言宗豊山派の五智山南円寺(本尊大日如来)があり、応永元年(一三九四)祐尊の開山で、小田氏の祈願寺として創建と伝える。

加茂村
かもむら

[現在地名]土佐山田町加茂

逆川さかかわ村の西方、物部ものべ川東岸に位置し、賀茂村とも記される。村内には鳴滝なるたき清水きよみず松尾まつおなど京都にちなむ地名が多くあり、紀貫之がこの地に遊んだとき名付けたとも、応天門の変で土佐に流された紀夏井が付近に住し、加茂大明神を勧請したともいう。片地かたじ(村)一三ヵ村の一で、明治初年片地村となる。

天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳には賀茂村として六八筆が記され、酒枝左馬介ら長宗我部氏家臣数人の給地。屋敷は一六筆で、うち居屋敷六筆。

加茂村
かもむら

[現在地名]市原市高滝たかたき 加茂

宮原みやばら村の南にあり、養老ようろう川が流れる。「沙石集」巻一に「上総国高滝トイフ所ノ地頭、熊野ヘ年詣シケリ」とある。当地には古代以来の高滝神社が鎮座し、賀茂明神とも称しており、永享二年(一四三〇)三月七日の阿弥陀如来立像銘に高滝社下村、永禄元年(一五五八)一二月四日の大日如来胎内銘には加茂高滝郷とみえるのも、この宮に関連するものであろう。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四九石。承応三年(一六五四)の検地帳(写、小幡家文書)では田一町五反余・二〇石余、畑五町八反余・四五石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に賀茂村とみえ、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。

加茂村
かもむら

[現在地名]宇和町加茂

宇和川上流域の平地と丘陵を占める村。北は大江おおえ村、南は坂戸さかど村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「加茂村 茅山有、日損所」と記される。「宇和旧記」は鴨村、「墅截」は賀茂村と書く。

太閤検地の石高は三九六石四斗三合、耕地面積の比率は田七八パーセント、畑二二パーセントであった。寛文検地では石高が三〇パーセントも減少し、田六四パーセント、畑三六パーセントの比率に変化している。「墅截」による村柄は「中」、耕地は田・畑ともに「中」、水掛り「悪」である。

加茂村
かもむら

[現在地名]市原市加茂

郡本こおりもと村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八七石。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、井上領分はのち高岡藩領となり、幕末に至る。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一九〇石余で家数一八、高岡藩領のほか幕府領となっており、幕末の支配領主も同様。天保郷帳では高二四六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報