吉田・上吉田(読み)よしだ・かみよしだ

日本歴史地名大系 「吉田・上吉田」の解説

吉田・上吉田
よしだ・かみよしだ

富士山を遥拝する鳥居(現北口本宮冨士浅間神社)の前方に形成された中世の町場(宿)。御師集落としての性格が強い。集落は東を桂川の支流ママ(間堀川)、西を神田かんだ(神田堀川)に挟まれ南北に広がる。南東には富士浅間明神が、鎮座する。小倉おぐら山・じよう山の間を西行した鎌倉街道は、神社門前を経て集落南端に至り、北行して北端で再度西に折れ、船津ふなつ(現河口湖町)へ向かう。この北端で富士山へ向かい南行してきた富士道が合する。街区を囲むように南に上行じようぎよう寺、東に西念さいねん寺・吉祥きちじよう寺・根神ねのかみ明神・地蔵寺、西に祥春しようしゆん庵などの寺社が計画的に配されていた(「上吉田の民俗」など)。この景観は元亀三年(一五七二)に集落・寺あげて移転後のもので、旧集落は間堀まぼり川を隔てて地蔵寺の東側、現在の字古吉田ふるよしだ・字上古吉田の境の街路に沿って東西に広がっていた。旧地東端城山の北端にほど近く、鎌倉街道は城山の北を西行して集落へ入り、これを縦断していたものと推測される。移転は富士山からの雪代を避けるためであったとの伝承が残る(同書)

勝山記」文明一二年(一四八〇)条に三月二〇日「富士山吉田取井立」と記される。同書には以後明応三年(一四九四)条に「吉田取訪大明神」、同五年条には「甲斐国都留郡吉田正覚庵」、同八年条には「吉田上行寺」、同九年条には「吉田トリイ」「吉田」など、いずれも上吉田に所在する寺社や堂舎に冠して記される。また天文一四年(一五四五)二月一一日の雪代災害についても、「富士山ヨリ雪代水ヲシ候て、吉田ヘヲシカケ、人馬共ニヲシナカシ申候、殊ニ其ノ水ニテ下吉田ノ冬水ノ麦ヲ悉クヲシナカシ申候」と下吉田と対比される上吉田は単に吉田とされており、「勝山記」記載の「吉田」は上吉田をさすものと理解される。同様の傾向は天文から天正年間(一五七三―九二)にかけての武田・小山田両氏の発給文書にもうかがえ、上吉田所在の寺社について、天文一七年五月二六日の小山田信有印判状写(甲州古文書)は「吉田諏訪」、天正九年五月六日の武田勝頼印判状(西念寺文書)は「吉田郷西念寺」などと所在地を「吉田」と表記する。ただし下吉田と明確に区分するために、まま上吉田の呼称が使われることもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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