上吉田村(読み)かみよしだむら

日本歴史地名大系 「上吉田村」の解説

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]富士吉田市上吉田一―七丁目・上吉田・新西原しんにしはら一―二丁目・同五丁目

現市域南西部にある。富士山に最も近い村で富士登山道の入口にあたり、谷村やむら(現都留市)を経て富士山に向かう富士道(谷村路)と鎌倉街道が交差する。東を桂川がほぼ北流する。北東から北にかけては下吉田村と境し、北西は松山まつやま村、西は溶岩台地けん丸尾上で船津ふなつ(現河口湖町)成沢なるさわ(現鳴沢村)に接する。南東は新屋あらや村、忍草しぼくさ(現忍野村)山中やまなか(現山中湖村)と接し、南は富士山頂に至る。

延享二年(一七四五)書写の慶長五年(一六〇〇)の上吉田村検地帳写(小猿屋文書)では高三二一石余。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控および慶長古高帳では高四八八石。寛文九年(一六六九)の検地帳(渡辺茂家文書)では高六四一石余。反別は屋敷一三町余・新町分屋敷一町二反余・横町分屋敷一反余・裏地七町七反余・上畑一六町一反余・中畑一九町一反余・下畑一五町七反余・下々畑二三町四反余・見付畑二八町八反余。西にしはら(現新西原)の下々畑四反余・見付畑二八町二反余・荒畑九町一反余。ほかに桑九束半。高のうちには明神(現諏訪神社)領二町三反余・御師将監領二町九反余・伊勢六反余・上行じようぎよう寺一反余・善導ぜんどう寺五反余・御蔵屋敷一反余など計六町九反余、高二三石余が含まれていた。延享三年の村明細帳(小沢鯉一郎家文書)では除地高を除く高六二六石余。小物成は薪三六四束(永一貫四〇〇文)・糠五一俵五升(永一九二文五分)・藁五〇駄(永三一二文五分)・青草六三駄三束(永二一一文五分)・夫金永六貫一九五文・宿役米三斗余や白木運上などを上納。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]吉田町上吉田

下吉田村の西、日尾ひお(現小鹿野町)の北に位置し、日尾村から流れる吉田川が東流し下吉田村に向かう。同川には日尾村境近くで、村西方の女形おながた入に水源をもつ女形沢が、村中央の塚越つかごしでは小川おがわ入に水源をもつ小川沢が合流する。下吉田村からの往還が小川沢に沿って北上し、上野国甘楽かんら生利しようり(現群馬県万場町)へ向かう。この往還の道幅は三尺から六尺であった(風土記稿)。天正二年(一五七四)二月一〇日付の鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦のものと思われる印判状写(山口文書)に「上吉田」とみえ、当地の代官・百姓中に対して欠落者の搦捕りを命じている。同年八月一七日、氏邦は同じく当地の代官百姓中に対して公方銭四貫文の返済要領を規定している(「北条氏邦印判状写」諸州古文書)。同一一年七月二七日氏邦は「山口物主 上吉田壱騎衆 其外衆」に宛てて感状(山口文書)を出し、日尾野伏召集に尽力したことを賞している。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]平鹿町上吉田間内かみよしだまうち

東は深間内ふかまうち村および山を隔てて婦気大堤ふけおおづつみ(現横手市)、南は客殿薊谷地きやくでんあざみやち村、西は中吉田村、北は清水町新田しみずまちしんでん(現横手市)に接する。

もと上吉田村・中吉田村・下吉田村は一村であったが、元和二年(一六一六)三村に分れた(雪の出羽路)

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に総名とあり、枝郷は「附札、上吉田村と可唱也」とある野田のだ村と三ッ屋みつや村・田中たなか村・田野上たのうえ村・新城にんじよう村・御公地ごくち村・福田ふくだ村・野中のなか村・四ッ屋よつや村・間角まつかく村・朴田ほうのきだ村・高野たかの村・茅屋鋪つばなやしき村・五十田ごじゆうでん村・福島ふくしま村。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]益田市常盤町ときわちよう駅前町えきまえちよう赤城町あかぎちよう水分町みずわけちよう元町もとまち・あけぼの東町ひがしまち・あけぼの本町ほんまち・あけぼの西町にしまち多田町ただちよう

高津川と益田川に挟まれた三角洲の南縁に位置する。かつてこの地は沖積土が完成せず、葦が生え、沖積土の完成とともに良田に開拓されたことから葦田よしだと称していたのを吉田と改めたという(益田市史)。さらに人口の増加に伴い、上・中・下に分れたという。東は上本郷かみほんごう村、南はひだりやま村、西は下吉田村、北は乙吉おとよし村。中世は吉田郷のうち。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]嬉野町大字吉田よしだ字上吉田一帯

現嬉野町の最南東部近くに位置する。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「吉田村六十町」とあるのは現嬉野町大字吉田一帯と考えられる。慶長絵図に「上吉田」とある。この村には文久三年(一八六三)の藤津郡吉田郷配分上吉田村・田畠・竈数・人別帳が残っている。それによると当時、寺辺田分てらべたぶんみね分・川内かわち分・万財ばんざい岩下いわした分・赤瀬あかぜ分・春日かすが分の七地区に分けられ、藩政時代は佐賀本藩の家臣であった鍋島隼人の知行地で、曹洞宗寺院永寿えいじゆ寺がこの地区の檀那寺であり、天台宗平尾山別当触内である本光坊弟子の山伏快行坊もこの地区にいた。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]鳳来町上吉田

西は竹輪たけのわ村、南は多利野たりの村、北から東へかけて下吉田村、遠州西黒田にしくろだ村・狩宿かりしゆく(現静岡県)に接する。現静岡県境の浅間せんげん山の裾が北西に延び、標高四五〇メートルの狐石きつねいし山の山裾との間に開けた平地に、中平なかひら川上かわかみ西山にしやま松沢しようざわ矢田やだの集落がある。山吉田鈴木氏系譜(鈴木武氏蔵)によると、大永四年(一五二四)鈴木長門守重勝は、足助あすけ(現東加茂郡足助町)から掛川かけがわ(現静岡県)に移り、さらに天文元年(一五三二)当地白倉しらくら山に築城したという。天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同六年吉田藩領、明暦二年(一六五六)一部海老菅沼氏領。

寛永年間(一六二四―四四)川上の久右衛門が紙漉を始めた。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]善通寺市上吉田町一―八丁目・文京ぶんきよう町一―三丁目・仙遊せんゆう町一丁目

金倉かなくら川中流域の左岸、生野いかの村の北西に位置する。地内は比較的平坦である。多度たど郡に属し、下吉田村とともに古代・中世の良田よしだ郷の遺称地。寛永国絵図に村名がみえ、吉田郷(高一千七七七石余)に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳でも下吉田村・稲木いなぎ村とともに吉田村に含まれる。同村の高一千八三一石余、うち新田一七九石余(下吉田宮領四石などを含む)。同一八年の山崎領小物成帳では吉田村の小物成は綿三九九匁五分。同村は京極氏入部直後上吉田村・下吉田村・稲木いなぎ村に分割されたと考えられる。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]吉田町片岡かたおか

下吉田村の北に位置し、突出する湯南原とうなんばら台地からほぼ直線に延びる大井川の旧堤防を挟んだ一帯に立地する。村の中央部やや東寄りを湯日ゆい川が南東流する。南東は九左衛門くざえもん新田。戦国期には小山こやま城が築かれ、江戸時代には馬継役を勤めた小山町があった。天正一七年(一五八九)三月六日の石雲院領検地帳写(石雲院文書)に上吉田とみえ、当地内に石雲せきうん(現榛原町)領の田地二反余があった。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]七宗町川並かわなみ八百津やおつ上吉田かみよしだ

現七宗町川並のたいら樫原かしばら野々古屋ののこや八百津町上吉田のたけゆずりわを含んだ。天保郷帳では野々古屋を除く四村が「上吉田」と注記される。加茂郡に属する。江戸中期の井戸家手鑑(井戸文書)によると「元和元年乙卯十月尾州様ヘ御添地トナル、検地有之総高弐百十二石余トナル、仍テ百姓至テ困窮ニ付、庄屋杉山九兵衛宗政ト年寄役井戸源七郎ト心ヲ合追々願出シテ此両人才知ヲ以願相叶、正保二乙酉再高百六十八石七斗七合トナル」とある。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]六戸町上吉田

東流する奥入瀬おいらせ川の右岸近くに位置し、南は三戸さんのへ五戸ごのへ(現五戸町)、北は犬落瀬いぬおとせ村、東は下吉田村、西は鶴喰つるばみ村に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に吉田村、一〇九石余とあり、同年の郷村帳では高一〇九・一九石のうち七四・八五九石が田である。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付にも吉田村として高三五七・九六七石とあり、七ヵ年平均の免は二ツ二分四厘六毛である。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]坂戸市上吉田・伊豆の山町いずのやまちよう末広町すえひろちよう

坂戸村の北にあり、西境を北東流してきた高麗こま川が北部で越辺おつぺ川に合流する。北は越辺川を境に比企郡田木たぎ(現東松山市)、東は片柳かたやなぎ村。日光脇往還がほぼ南北に通り、越辺川に歩行渡場があった。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には行平から養子俊平へ譲られた小代しようだい(現東松山市)内の村として「よしたのむら」がみえる。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]美山町大字盛郷もりさと 上吉田

つるおか一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川に山森やまもり川が合流する地点、若狭(高浜)街道沿いに開けた山間集落。川の上流(北東)はやし村、下流(南西)田土たど村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高九一・二九八石、旧高旧領取調帳では一〇四・六一九石。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]山鹿市上吉田

ゆるぎ(四一六・三メートル)の南麓に位置し、東は久原くばる村・今田いまだ村、西は寺島てらじま村、南は名塚なづか村と接する。「国誌」所載の菊池持朝が裏書をする永享六年(一四三四)一二月二一日の日輪禅寺建立次第によると、同寺の寺領に「吉田大園之内野豆」一町がある。天正一七年(一五八九)の検地帳によると田六〇町二畝余・畠二七町八反七畝余、分米九〇六石八斗余、下ケ名に天神免・道免などがある。近世は中村手永に属する。「国誌」には高六二四石余、「菰原村皆川村萱場村仏山村中屋敷村下屋敷村市瀬村乗福寺村中尾村等ノ小村アリ」とあり、寛永(一六二四―四四)頃までは上吉田・下吉田・大園おおぞの・名塚は一村であったが、のちに三ヵ村に分れたという。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]南河内町上吉田

鬼怒川右岸の低地に位置し、西側を川が南流する。西は上川島かみかわしま村、東はいさわら(現芳賀郡二宮町)。慶安郷帳に村名がみえ、上吉田村一四四石余・上吉田大学新田二四石余、ともに畑高のみで幕府領。寛文四年(一六六四)には都賀つが郡の内として久世広之領(寛文朱印留)元禄郷帳では幕府領と旗本島田の二給。寛政一二年(一八〇〇)には旗本島田・山本の二給(「小金井宿助郷村出入済口証文」猪瀬盛三郎文書)。改革組合村では旗本島田・山下の二給とみえ、幕末に至る。

上吉田村
かみよしだむら

[現在地名]会津若松市高野町柳川こうやまちやながわ

川東岸にあり、西の対岸は横沼よこぬま村、北西は下吉田村、南は中地なかじ村。湯川流域に開けた水田地帯で、吉田堰・清水しみず堰が一帯を潤す。古くは下吉田村とともに吉田村であった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では門田もんでん郡のうちに上吉田とあり、高一六二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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