吉田清成(読み)よしだきよなり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田清成」の意味・わかりやすい解説

吉田清成
よしだきよなり
(1845―1891)

明治政府の外務・財政官僚。弘化(こうか)2年2月24日、薩摩(さつま)藩士の家に生まれる。通称太郎。英学を学び、1865年(慶応1)藩派遣留学生の一人として英、米に渡り、とくに銀行・保険制度を修学。1870年(明治3)帰朝し、明治新政府に出仕して租税権頭(ごんのかみ)、大蔵少輔(しょうゆう)を歴任秩禄(ちつろく)処分のため、英、米で起債に奔走。1874年、駐米特命全権公使。1878年税権回復を目ざし日米間の条約改正(吉田‐エバーツ条約)には成功したが、未発効に終わる。1882年外務大輔(たいふ)。のち外務次官、農商務次官から元老院議官枢密顧問官に転じ、子爵に叙せられた。著書に『亜米利加(アメリカ)合衆国憲法』などがある。明治24年8月3日没。

[田中時彦]

『京都大学文学部国史研究室編『吉田清成関係文書 書翰篇』1~4(1993~2008・思文閣)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「吉田清成」の解説

吉田 清成
ヨシダ キヨナリ


肩書
枢密顧問官,元老院議官

別名
変名=永井 五百介 幼名=巳之次 通称=太郎

生年月日
弘化2年3月(1845年)

出身地
鹿児島

経歴
藩吏となり、元治元(1864)年に薩摩藩留学生として米英に7年間留学。帰国後明治4年に大蔵省御用掛となり大久保利通・大隈重信らを補佐し、秩禄処分の実施にあたった。7年駐米公使、11年日米新条約の締結に成功。15年外務大輔、19年農商務次官、20年5月子爵に叙せられ、同年7月元老院議官に、翌年から24年まで枢密顧問官に任ぜられた。

没年月日
明治24年8月3日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田清成」の解説

吉田清成 よしだ-きよなり

1845-1891 明治時代の外交官
弘化(こうか)2年2月14日生まれ。元治(げんじ)2年薩摩(さつま)鹿児島藩留学生となり英,米でまなぶ。明治4年大蔵省にはいり,外債募集に成功。7年駐米公使となり,11年関税自主権回復の日米新条約(吉田・エバーツ条約)を締結した。のち農商務次官,元老院議官,枢密顧問官。明治24年8月3日死去。47歳。幼名は巳之次。通称は太郎。

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