名蔵村(読み)のーらむら

日本歴史地名大系 「名蔵村」の解説

名蔵村
のーらむら

[現在地名]石垣名蔵なぐら

石垣いしやなぎい村の北に位置し、西は名蔵なぐら湾に面する。北・東・南三方を山に囲まれ、北東隅に於茂登うむとう(五二五・八メートル)、北西隅にぶざま岳(三二一・六メートル)があり、於茂登岳南麓に発した名蔵のーら川が村域中央部を西流し名蔵湾に注ぐ。両島絵図帳に「那蔵村」と記され、高二二石余。近世を通じて石垣いしやなぎい間切のうち。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上に村名はみえず、石垣間切石垣村の管下にあったとみられる。順治八年(一六五一)の人口は同村と合せて五五六人。康熙二五年(一六八六)久米村くにんだ(現那覇市)の風水師外間親雲上の見立てにより、集落を「本名蔵」から名蔵湾岸の潮嶺すんに(シーラ)に移転した。同三三年から雍正八年(一七三〇)まで名蔵窯で蔵元屋根瓦を製造しており(以上、八重山島年来記)、名蔵川下流右岸、神田かんだ橋近くで瓦窯跡が見つかっている。

雍正五年の八重山島由来記に「石垣村之内名蔵村」とみえ、集落は南西の方を向き、長さ一町一七間・横一町一間とある。乾隆二年(一七三七)の調査では人口五三人、村回り七町一八間で、風気はよく、田畑も広く住みやすいと報告されている(参遣状)。同年三月、名蔵村百姓二三人は石垣・登野城とうぬすく両村から二〇〇人ほどを寄百姓して独立したいと願出た。石垣村役人の管下にあるため、年貢上納や公事勤めに際しては一里余の山道を同村まで出掛けねばならず、また少人数では村の維持も困難というのが理由であった。石垣・登野城両村には前年の猪垣築造時に加勢夫を出してもらっており、耕地の少ない両村百姓に近接地で耕作させていたこともあって、一〇月には独立が許可された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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