日本歴史地名大系 「名護村」の解説 名護村なぐむら 沖縄県:沖縄島北部名護市名護村[現在地名]名護市東江(あがりえ)一―五丁目・城(ぐすく)一―二丁目・港(みなと)一丁目・大中(おおなか)一―五丁目・大東(おおひがし)一―四丁目・大西(おおにし)一―五丁目・大南(おおみなみ)一―四丁目・大北(おおきた)一―五丁目・名護(なご)現名護市の西部中央、名護(なぐ)間切の中央部に位置し、西は名護(なご)湾に臨む。東の名護(なご)岳(三四五・二メートル)を背に、名護湾に沿った海岸砂丘や低地に集落が立地する。名護(なご)貝塚・アパナク貝塚・溝原(みぞばる)貝塚など貝塚時代後期の人々はこの海岸砂丘上に居住し、グスク時代になって名護(なご)グスクの丘陵上に移動した。「おもろさうし」巻一四の一六に名護の浦がみえ、「一 あかおもひきや(我が思い人が)/あくておちやる なこのうら(待ち望んでいた名護の浦)/たゝひとり やたもの(ただ一人だったのに)/おもいはの きもちやさ(思えば気の毒なこと)/又 あかおもひきや(我が思い人が)/すまておちやる きせのうら(しまっておいた喜瀬の浦)」とある。同書巻一七の六には「一 なこさかい おやさかい きよもの(名護境 御境 来たもの)/おやちやうあけて(御門開けて)/わんいれゝ(我入れよ)」とみえる。絵図郷村帳では名護間切のうちに名護村(東江村か)・かねく村(大兼久村か)・城(ぐしく)村(城村か)の三ヵ村(のちの名護三箇)がみえる。琉球国高究帳では名護村のみとなり、高頭四四七石余、うち田四三二石余(うち永代荒地三九石余)・畠一四石余。以後近世末に至るまで、王府は行政的に名護村として把握したのだろう。東江(あがり)・城・大兼久(ぽーがにく)は名護グスクを発祥の地とするなど関係は強いが、三ヵ村がいつ頃分れたのかは未詳。伝承によると、名護グスク西下方のイジグチ屋(や)が城村の旧集落といわれ、南の幸地(こうち)川を越えた山川又(やまがーまた)に移った集団が東江村を、北西のポードゥー(大堂原)に移った人々が大兼久村をつくったという(名護六百年史)。「琉球国由来記」によると、拝所としてテンツギノ嶽(神名イベヅカサ)・名護(なぐ)巫火神・名護城神アシアゲがあり、名護ノロが管轄。名護ノロはほかに数久田(しつた)村・世富慶(ゆつき)村・宮里(なーざとう)村の祭祀も管轄した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by