改訂新版 世界大百科事典 「呉服師」の意味・わかりやすい解説
呉服師 (ごふくし)
江戸時代,将軍家の側近として呉服物を独占的に納入した特殊な御用達。そのほか禁裏御所や大名屋敷に出入りした呉服商も呉服師と呼ばれた。公儀呉服師には元方御納戸御用と払方御納戸御用があり,前者は将軍家の服飾と手回り品いっさいの調達を,後者は賜与,ほうびの時服などいっさいの調達を行った。将軍の側近にあって身辺の御用を務めていた関係から,私的にきわめて親近な関係にあり,利権にありつくことも多かった。1603年(慶長8)の幕府の成立時には,後藤縫殿助,茶屋四郎次郎,亀屋栄任らが徳川家康の側近として重宝がられていたが,慶長末より元和年間にかけて尾州茶屋新四郎,上柳,三島屋の3軒が追加され,呉服師6軒仲間が成立した。その中心は後藤,茶屋で,各200石の禄高と役宅が与えられていた。将軍や幕府の必要な呉服物についてあらかじめ値段書を提出し,受注しだい呉服物を仕入れて納入し,初期には元値段の1割5歩~2割が歩付として認められていたが,時代によって利益率に変更があった。幕政初期には呉服師の経営はきわめてよく,呉服物の注文も多かった。元禄ころから幕府の財政が困窮してくると支払いが抑制され,また当時呉服師仲間が急増していたので,収入は減少し,経営は悪化した。そのため,救済方を幕府に願い出るようになり,資金の貸付け,糸割符増銀の増額,鋳銭事業の請負などの救済措置がとられた。公儀呉服師仲間は,寛永期に橋本が,元禄期に三井(越後屋)が追加され,さらに1697年(元禄10)には計15軒,1706年(宝永3)には計21軒に増やされた。享保期の幕府財政緊縮化にともなって増員した呉服師は整理され,旧来の6軒仲間と橋本に,あらたに8代将軍吉宗の側近であった紀州茶屋を加えて計8軒仲間に減員された。なお諸大名も京都に2~3名の呉服師をおいていた。
執筆者:中田 易直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報