デジタル大辞泉
「茶屋四郎次郎」の意味・読み・例文・類語
ちゃや‐しろうじろう〔‐シラウジラウ〕【茶屋四郎次郎】
安土桃山・江戸時代の京都の豪商。四郎次郎は歴代の通称。初代清延・2代清忠・3代清次・4代道澄・5代延宗と、徳川家の呉服師、朱印船貿易商、糸割符商として巨利を得た。
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ちゃや‐しろうじろう‥シラウジラウ【茶屋四郎次郎】
- 安土桃山・江戸時代の京都の豪商。公儀呉服師。代々四郎次郎を名乗った。初代清延は安南貿易に従事。二代清忠は家康の側近。三代清次、四代道澄、五代延宗と糸割符の特権を得、また鎖国まで海外貿易に活躍、幕府成立期の財政にも寄与した。
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茶屋四郎次郎 (ちゃやしろうじろう)
生没年:1542-96(天文11-慶長1)
徳川家康の側近御用達。京都の豪商。先祖は山城国とも三河国出身ともいわれ,つまびらかでない。姓は中島を称し,初代は清延,法名を情延といった。茶屋は三河の大名徳川氏の御用達として家康の側近に仕え,上方筋の情報を家康に提供し,軍需品の調達や,京都における家康の旅宿をつとめた。家康の戦争にはつねに出陣して側近で活躍し,ときには間者(かんじや)や講和の内使などをつとめた。1588年(天正16)ごろ家康の江州代官として年貢の徴収にあたったが,のち辞退し,家康の呉服御用達として仕え,その子孫は代々呉服師を継承した。初代清延は1582年の家康の伊賀越えに,その経済力をもって協力したことは有名。京都の茶屋は家康に近かったことから豊臣氏ににらまれ,一時堺に逃避している。
初代清延は家康と同年齢であったが1596年(慶長1)に死去し,長男の清忠(1583-1603)が2代目四郎次郎を継いだ。清忠は所司代の設置を進言し,上方5ヵ所(京,大坂,奈良,堺,伏見)町人を支配し,家康の上方の都市政策に貢献したが,1603年に早世し,次弟又四郎清次(1584-1622)が家康の命で3代目四郎次郎となる。清次はこれまでの茶屋の役割のほかに,07年より14年まで長崎奉行長谷川藤広の配下にあって,商売の代官として家康の貿易,糸割符制度の育成,大坂の陣前の軍需品の調達,およびキリスト教徒の内偵などに貢献した。また12年以降長崎を根拠地として交趾(コーチ)に朱印船貿易を行い,以後4代目四郎次郎の代の寛永鎖国までつづけられた。さらに大坂の陣に際しては,3代目清次が弟の新四郎長吉(尾州茶屋)とともに,金座の長官後藤庄三郎と協力して講和の内使をつとめている。このように,豪商ではあったが,家康政権にとってきわめて重要な役割を果たした。4代目以降四郎次郎は家業の公儀呉服師として側近に仕える特権町人であった。
執筆者:中田 易直
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茶屋四郎次郎
ちゃやしろうじろう
安土(あづち)桃山~江戸時代の京都の豪商。幕府呉服(ごふく)師。本姓中嶋(なかじま)。出身地は山城(やましろ)との説もあるが、三河(みかわ)説が有力。代々四郎次郎と称す。初代清延(きよのぶ)(1545―96)は三河時代の徳川氏の御用商人として活躍し、本能寺の変に際し、その報を畿内(きない)にきていた家康に伝えたことで知られる。2代清忠(きよただ)(1582―1603)は京の総町頭役となるが、嗣子(しし)なく早世した。3代清次(きよつぐ)(1584―1622)は又四郎といい清延の次男、家を継ぎ1614年(慶長19)襲名。長崎奉行(ぶぎょう)長谷川(はせがわ)藤広に従って長崎に下り、御用糸支配など貿易に携わり、キリシタン禁圧にも働いた。1612年から朱印船を交趾(こうち)(現在の中部ベトナム)に派遣し、4代道澄(みちすみ)、5代延宗(のぶむね)の代まで続けた。清次は大坂の陣の際、家康側近として京に戻り、京、大坂、奈良、堺(さかい)、伏見(ふしみ)の町人、および過書船(かしょぶね)の御用商人の支配を命ぜられた。なお清延の三男新四郎、四男小四郎はそれぞれ尾張(おわり)家、紀伊家の呉服師を勤めた。
[脇田 修]
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茶屋四郎次郎(初代)
没年:慶長.1閏7.27(1596.9.19)
生年:天文11(1542)
近世初頭の京都の政商。四郎次郎は京都茶屋本家の代々の名称。初代四郎次郎清延は父四郎左衛門明延,母小笠原長隆の娘とされる。本姓は中嶋氏。清延は永禄のころ(1558~70)より三河(愛知県)の徳川氏の御用商であったが,この初代の清延は徳川家康と同年齢であって,若年より三河に赴いて家康の側近に仕え,特に昵懇な関係にあった。以来,徳川氏の「上方之御買物御用」や戦陣の諸道具の調達に当たり,家康のたびたびの合戦には常に側近に供奉。天正10(1582)年の家康生涯の危機であった「伊賀越」にも,茶屋の経済力をもって助力した。その後,豊臣秀吉政権においても,上方における家康の隠密御用を務め,対朝廷工作や政治状況を三河に通報するなど政商の役割を果たした。また同16年ごろより,一時家康の近江(滋賀県)の所領の代官職を務め,一方京都の町人頭として町方を統制したり,江戸の町割に関与するなど,重要かつ特殊な家臣であった。<参考文献>「茶屋文書」(京都市茶屋武郎氏蔵),中田易直「茶屋四郎次郎由緒考」(『歴史地理』87巻1・2号),同「豪商茶屋と三井」(『人物日本の歴史』8巻)
茶屋四郎次郎(3代)
没年:元和8.7.16(1622.8.22)
生年:天正13(1585)
江戸期初頭の代官的豪商,朱印船貿易家,公儀呉服師。2代茶屋四郎次郎清忠が早世したため,慶長8(1603)年初代四郎次郎清延の次男又四郎が他家に養子に出ていたのを徳川家康の命で家督を相続。同19年,3代目四郎次郎を襲名,名は清次。又四郎は同12年昵懇の長谷川左兵衛(もとの養子先)の長崎奉行就任に伴い,長崎奉行所で外国船の管理,キリシタンの吟味など外国貿易や都市長崎の行政に関与,家康の売買の代官として活躍している。大坂の陣(1614~15)前の家康の軍需物資の調達にも努めた。また同17年家康の特許で朱印船貿易を始め,安南国交趾(インドシナ半島)に派船して,以後朱印船貿易の主流となる。その他将軍家の側近御用,公儀呉服師の家業も務め,幕閣内に隠然とした勢力を持った。<参考文献>「茶屋文書」(京都市茶屋武郎氏蔵),中田易直「茶屋四郎次郎由緒考」(『歴史地理』87巻1・2号)
茶屋四郎次郎(2代)
没年:慶長8.4.1(1603.5.11)
生年:生年不詳
近世初頭の京都町方頭役。名は清忠。父初代四郎次郎清延,母藤原宗輔の娘の長男。慶長1(1596)年父より家督を相続し,父と同様徳川家康の戦陣に従軍し,諸事御用を務めた。関ケ原の戦(1600)後,茶屋新四郎らと家康に呼ばれ,京都町中の治安を尋ねられ,「京洛殊の外騒動の由」申し上げたことが,京都所司代設置の動機になったと伝えている。京都所司代板倉勝重が就任すると,清忠は重用され,京都の町割に関係し,また上方五カ所(京都,大坂,奈良,堺,伏見をいう)町人の御礼支配や,京都町方元締として惣町頭役を務めた。家康のもとで上方町人の把握と封建都市の形成に貢献している。なお妻帯することもなく早世した。<参考文献>「茶屋文書」(京都市茶屋武郎氏蔵)
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「茶屋四郎次郎」の意味・わかりやすい解説
茶屋四郎次郎【ちゃやしろうじろう】
江戸時代の京都の豪商。幕府,御三家の御用呉服商で,朱印船貿易に従事。姓は中島,代々四郎次郎を称す。初代清延(きよのぶ)〔1542-1596〕,2代清忠〔1583-1603〕,3代清次〔1584-1622〕。清延は徳川家康の伊賀越えに協力したことで知られる。清忠は家康に京都所司代の設置を進言し,京,大坂,堺,伏見,奈良の上方五ヶ所の町人を支配した。清次は糸割符(いとわっぷ)の特権を得て長崎奉行を助けて,貿易管理とキリシタン取締りに努めた。4代目以降も公儀呉服師として特権町人であった。
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茶屋四郎次郎
ちゃやしろじろう
江戸時代の京都の豪商,茶屋家歴代の通称。茶屋家は徳川将軍家の呉服師で,安南貿易と糸割符 (いとわっぷ) 貿易により巨富をたくわえ,代々四郎次郎を屋号として使用した。初代清延 (1545~96) は家康の近習として仕えるかたわら安南貿易に従事し,2代清忠 (?~1603) も家康に近侍,3代清次 (?~22) は糸割符の特権を得て,幕府の外交貿易政策の遂行に大きな役割を果し,4代道澄,5代延宗は安南やコーチシナとの間に朱印船貿易を行なったが,寛永 12 (1635) 年異国渡海の禁で中止のやむなきにいたった。以後,白糸販売に専念するが,次第にふるわなくなった。
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茶屋四郎次郎
ちゃやしろうじろう
1542~96.閏7.27
近世初頭の豪商茶屋家の初代当主。名は清延(きよのぶ)。京都の呉服商茶屋四郎左衛門明延の子。若年から徳川家康の側近として戦陣に従い,軍需物資の調達や上方筋からの情報伝達にもあたった。豊臣秀吉政権下では,家康のために諜報活動をしたり,豊臣氏との調停をはかるなどしている。家康の朝廷工作にかかわり,関東への領地替では江戸町割を担当し,江州代官も勤めた。以後,茶屋本家当主は代々四郎次郎を襲名している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
茶屋四郎次郎(3代) ちゃや-しろうじろう
1585-1622 江戸時代前期の豪商。
天正(てんしょう)13年生まれ。初代茶屋四郎次郎の次男。はじめ長谷川藤広の養子となるが,2代没後,徳川家康の命で家をつぎ,家康につかえる。慶長17年朱印船貿易を開始,交趾(コーチ)(ベトナム)との通商にたずさわった。元和(げんな)8年7月16日死去。38歳。名は清次。通称は又四郎。
茶屋四郎次郎(初代) ちゃや-しろうじろう
1542-1596 戦国-織豊時代の豪商。
天文(てんぶん)11年生まれ。茶屋明延の子。三河(愛知県)以来の徳川家康の御用商人。本能寺の変では,家康の伊賀(いが)越えをたすける。のち京都で徳川家の呉服用達(ようたし)となり,隠密御用もつとめた。文禄(ぶんろく)5年閏(うるう)7月27日死去。55歳。本姓は中島。名は清延。
茶屋四郎次郎(2代) ちゃや-しろうじろう
?-1603 織豊時代の豪商。
初代茶屋四郎次郎の長男。徳川家康につかえ,呉服用達(ようたし)のほか諸事御用にかかわった。また上方町人御礼を支配し,京都町方取締として総町頭役をつとめた。慶長8年4月1日死去。名は清忠。
茶屋四郎次郎(4代) ちゃや-しろうじろう
?-1663 江戸時代前期の豪商。
3代茶屋四郎次郎の子。家業をついで交趾(コーチ)(ベトナム)との朱印船貿易に従事した。寛文3年10月9日死去。名は道澄。
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茶屋四郎次郎
ちゃやしろじろう
江戸時代の京都の豪商で,茶屋家歴代の通称
朱印船貿易家・糸割符 (いとわつぷ) 商人・徳川将軍家の呉服師として活躍。初代清延(1542〜96)はアンナン貿易に活躍。2代清忠は徳川家康に近侍。3代清次は糸割符貿易とともに幕府成立期の財政に寄与。茶屋は角倉 (すみのくら) ・後藤とともに三大長者と称されたが,鎖国後衰退した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の茶屋四郎次郎の言及
【呉服師】より
…将軍の側近にあって身辺の御用を務めていた関係から,私的にきわめて親近な関係にあり,利権にありつくことも多かった。1603年(慶長8)の幕府の成立時には,後藤縫殿助,[茶屋四郎次郎],亀屋栄任らが徳川家康の側近として重宝がられていたが,慶長末より元和年間にかけて尾州茶屋新四郎,上柳,三島屋の3軒が追加され,呉服師6軒仲間が成立した。その中心は後藤,茶屋で,各200石の禄高と役宅が与えられていた。…
※「茶屋四郎次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」