和邇庄(読み)わにのしよう

日本歴史地名大系 「和邇庄」の解説

和邇庄
わにのしよう

和邇川を中心に、比良山地南東の湖岸に沿って開けた庄園。和爾・羽爾などとも記す。「輿地志略」は庄域を江戸期の北浜きたはま村・中浜なかはま村・南浜村高城たかしろ村・今宿いまじゆく村・和邇中村・小野おの村とする。長保三年(一〇〇一)六月二六日の平惟仲施入状案(高野山文書)に「近江国滋賀郡和邇庄」とみえ、白川寺喜多院(のちの寂楽寺、跡地は現京都市左京区)に施入されている。長久三年(一〇四二)一二月二〇日の寂楽寺宝蔵物紛失状案(同文書)によれば、当庄の本田は八九町で、この頃までは寂楽じやくらく寺領であった。仁安四年(一一六九)二月に焼失した延暦寺横川中よかわちゆう堂再建の材木伐採には仰木おうぎ(現大津市)・和爾の杣工が用いられた(山門堂舎記)

和邇庄
わにのしよう

延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の添上郡に「和邇庄廿町四反二百九十歩公田也」とある。公田のみからなる興福寺雑役免田である。その条里(括弧内は坪数)は二条六里(二)・七里(一)、三条六里(一一)・七里(一六)である。この条里によると、和邇庄の所在は現中之庄なかのしよう町から森本もりもと町にかけての地域(現菩提仙川北岸)に比定される。

延久以降、当庄は大乗院領中庄・同片岸になったのではないかと考えられる。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)目録に「五十八中庄正願院六丁五反惣十二丁、添上郡 同片岸十八町半 和邇川南九丁余、和邇川北九丁余也」とあり、また本文に「中庄東和邇、進官庄」とみえる。本文によると、中庄は延久の和邇庄(一部)と考えられるが、目録の面積なども考慮すると、同片岸の和邇わに(現菩提仙川)北九丁余も延久の和邇庄であったものと考えられる。

和邇庄
わにのしよう

永観二年(九八四)と考えられる湛照僧都分付帳(東大寺要録)の雑役免のうちに「和邇庄廿(ママ)町七段永富負 不輸租田三町三段 伝法供三段、春日神戸二町、一品御位田一町 公田畠十九町四段」とある。和邇庄は東大寺雑役免田であり、永富負田に設定されたものと考えられる。また同年の東大寺牒(東大寺要録)の香菜荘園にも「和邇庄」とある。雑役免は香菜免であったものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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