日本歴史地名大系 「中ノ庄村」の解説
中ノ庄村
なかのしようむら
文禄検地帳を転記したものと思われる伊勢国中御検地高帳に中ノ庄とみえ、石高一〇五九・一石とある。慶長二年(一五九七)の地平御検地帳写(中ノ庄区有文書)によれば、当村は伏見御給人一三人の知行所となっている。
中ノ庄村
なかのしようむら
- 大阪府:泉佐野市
- 中ノ庄村
佐野川左岸に広がる。北は大阪湾に臨み、村のほぼ中央を紀州街道(熊野街道)が通る。中世には中庄と書き、近世には中庄・中ノ庄が両用された。中世には「佐野三か庄」(享禄二年一二月二五日「飯室料頭職宛行状」中家文書)の一と考えられ、暦応三年(一三四〇)一一月九日の十生寄人等連署請文(和田文書)に「佐野中庄鶴原」とみえる。「大乗院寺社雑事記」文明一九年(一四八七)五月一一日条には「大仏供中庄ハ庭田自去年押領之」とあり、当地は大仏供料所であった。文亀元年(一五〇一)一〇月一六日の田地売券(中家文書)によると「中庄寺村覚円」が
中ノ庄村
なかのしようむら
- 三重県:亀山市
- 中ノ庄村
という尊氏下知状(京都御所東山御文庫記録)が示すように、下庄とともに下地が本所中御門家に返付された。近世は久居藩領。宝永年間(一七〇四―一一)以後、大助郷制の実施に伴って亀山宿の助郷村に加えられた(亀山地方郷土史)。
中ノ庄村
なかのしようむら
中ノ庄村
なかのしようむら
中ノ庄村
なかのしようむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報