日本歴史地名大系 「嘉祥寺跡」の解説 嘉祥寺跡かしようじあと 京都市:伏見区深草村嘉祥寺跡京都市伏見区にあった寺。跡地は「山城名跡巡行志」に「旧跡在瓦町東(中略)瓦町東善福寺境地土中三尺計下ニ古ノ柱ノ居石又敷瓦アリ、是嘉祥寺ノ旧地也」とあり、「山城名勝志」には「旧跡曰嘉祥寺畑有号戒檀村処、又有号房馬場口所、安楽行院東南地也(中略)今嘉祥寺畑尾瓦作者多居住」と記し、嘉祥寺畑は現伏見区深草瓦(ふかくさかわら)町辺りをさすという。また「拾遺都名所図会」善福(ぜんぷく)寺の項に「此地もいにしへは嘉祥寺の封境にして本堂の礎上石の伽藍石なり、又仁明帝より嘉祥寺開祖真雅僧都へ御付属ありし薬師仏当寺にあり」とし、深草瓦町の善福寺およびその周辺地と考えられる。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔創建〕現在の嘉祥寺の伝えでは、「古への嘉祥寺は、嘉祥三年二月仁明天皇の崩御あるや、太子道康親王嘉祥寺を建て給ひし」とする。しかし実際には仁明天皇が没したのは嘉祥三年(八五〇)三月二一日で、山陵を深草に築いたのは三月二五日である(続日本後紀)。寺名の初見は「文徳実録」仁寿元年(八五一)二月一三日条の「是日移清涼殿、為嘉祥寺堂、此殿者、先皇之讌寝也、今上不忍御之、故捨為仏堂」であり、仁明天皇が生前居住した清涼殿を子の文徳天皇が移建し、嘉祥寺の堂とした。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by