嘉麻郡・嘉摩郡
かまぐん・かまぐん
筑前国東端部の中央に位置し、南は上座郡、夜須郡、西は穂波郡、北は鞍手郡、東は豊前国田川郡に接する。近世の郡域はおよそ現嘉穂郡の東部にあたる頴田町・庄内町・稲築町・碓井町・嘉穂町、山田市および飯塚市の一部に相当し、山がちの地形で遠賀川の上流部や支流の流域に耕地が形成されている。
〔古代〕
嘉麻郡と記される場合が多い。「延喜式」民部上、「和名抄」諸本に嘉麻とみえ、東急本・元和古活字本の訓「加万」から「かま」と読む。「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条に筑紫に鎌屯倉(現稲築町鴨生を中心とした地域に比定)を設置したと伝えるが、「万葉集」巻五に「神亀五年七月二十一日、嘉摩郡にして撰定しき。筑前国守山上憶良」とあるのが郡名の初見。木簡関係では、平城京跡で発見された二条大路木簡中に付札木簡(平城宮概報二二)として「□□大宰進上筑前国嘉麻郡殖□
」とあり、大宰府史跡不丁地区官衙出土の紫草付札木簡(大宰府概報二)に「加麻郡□
」とあるほか、長岡京跡では「嘉麻郡米五斗 □(以下略)」の付札木簡(木簡研究一三)が確認されている。「続日本紀」宝亀元年(七七〇)七月一八日条には、白雉を得た「筑前国嘉麻郡人財部宇代」に爵二級が授けられ、稲五〇〇束が与えられたとある。延喜五年観世音寺資財帳に観世音寺(現太宰府市)の封戸二〇〇烟のうちの筑前国一〇〇烟中に「嘉麻郡五十烟 碓井郷」と記され、これは「新抄格勅符抄」に丙戌年(朱鳥元年、六八六)に施入されたと記される筑前国一〇〇戸の封戸(うち五〇戸は金生封)に由来する。前掲資財帳の水田章には、和銅四年(七一一)一〇月二五日の太政官符により施入された嘉麻郡の六町四段の熟田、および嘉麻郡の四町八段八六歩の墾田の記載があるが、庄所章の「長尾庄 有嘉麻郡 草葺屋参間」の部分は現筑穂町長尾が遺称地であることから、穂波郡の誤りとする説がある。「和名抄」によれば草壁・三緒・大村・綱別・山田・馬見・碓井の七郷が存在したが、やがて郡郷制の再編により嘉麻郡は嘉麻南郷(長和三年二月一九日「筑前国符案」東大寺成巻文書、治安四年四月二三日「筑前国符案」同文書/平安遺文二)と嘉麻北郷(前掲長和三年筑前国符案)に分割された。文書の内容から南郷には少なくとも碓井郷(現碓井町)が含まれていたことがわかる。郡司関係では、延久元年(一〇六九)八月二九日の筑前国嘉麻郡司解案(東大寺成巻文書/平安遺文三)に、「大領代僧在判 図師判官代王則季」とあるにすぎない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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