長尾庄(読み)ながおのしよう

日本歴史地名大系 「長尾庄」の解説

長尾庄
ながおのしよう

和名抄寒川さんがわ長尾郷の郷名を継ぐ。近世の長尾西・同東・同名三ヵ村を遺称地として、現在の長尾町中央部一帯に比定される。正応元年(一二八八)八月三日の関東御教書(三宝院文書)に「二位家法華堂領讃岐国長尾庄」とみえ、幕府は下知状に従って同堂の別当や僧侶らに当庄の土地を分配するよう六波羅探題へ下命しており、当庄は鎌倉二位家法華堂領として幕府の管理下にあった。一方、嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には、安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)末寺興禅こうぜん院領として掲げている。安楽寿院領を含む八条院領は、承久の乱に際し後鳥羽院より没収され、幕府より後堀河天皇の父後高倉院へ返付され、のちその本家職は大覚寺統へ伝えられた。これらの事実から推定しておそらく当庄は承久の乱の没収地であり、領家などの所職が幕府領となり、のち政子の法華堂に施入されたものであろう。その結果、乱後の当庄は従来どおり天皇家を本家としながらも、実際には幕府により管領されることになったといえよう。二位家法華堂領は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府が管領し、のち山城醍醐寺三宝さんぼう院が知行以後、当庄は二位家・右大臣家両法華堂領としてその名がみえる(→造田庄

観応二年(一三五一)一一月二日の足利義詮書状(三宝院文書)で両法華堂の別当職が三宝院門跡へ安堵され、翌三年四月一三日には、長尾右衛門尉保守が当庄所務を年貢三〇〇貫文で請負っている。長尾氏はおそらく当地武士であろう。なおこのときの請文(同文書)には「讃岐国東長尾庄」と表記しているが、これは鵜足うた郡の長尾郷と区別するためである。ついで、応永三年(一三九六)二月一九日には、守護被官の石河浄志が領家代官職を年貢二〇〇貫文で請負っている(同文書)

長尾庄
ながおのしよう

穂波ほなみ川中流域、現長尾辺りに存在した庄園。延喜五年観世音寺資財帳の庄所章に「長尾庄 有嘉麻郡」(嘉麻郡は穂波郡の誤りか)とあり、当庄には「草葺屋参間」が設置されていた。永保二年(一〇八二)白河天皇が安楽寺(太宰府天満宮)の塔院(西御塔)を建立して「長尾卅丁」などを寄進し(安楽寺草創日記)、当庄は観世音寺(現太宰府市)領から安楽寺領に移行した。正和二年(一三一三)二月日の信朝所領等注進状(太宰府天満宮文書/鎌倉遺文三二)によれば、信朝の「兼帯職」のなかに「西御塔灯油長尾御庄」があり、当庄が「西御塔」の灯油料所に充てられていたことがわかる。室町期―戦国期安楽寺は当庄を含む寺領庄園に「御祭田楽酒直」や「祭騎馬貫首」を賦課している(享徳三年八月日「安楽寺公文所下文」同文書/天一三、永禄三年八月一九日書写「御祭騎馬貫首支配帳」大鳥居文書/大宰府・太宰府天満宮史料一五)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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