日本大百科全書(ニッポニカ) 「四条宮下野」の意味・わかりやすい解説
四条宮下野
しじょうのみやしもつけ
生没年未詳。平安中期の女流歌人。下野守(しもつけのかみ)源政隆の娘。母は未詳。1050年(永承5)関白藤原頼通(よりみち)の娘寛子(四条宮)が後冷泉(ごれいぜい)天皇に入内(じゅだい)するに際して、その後宮に出仕。1068年(治暦4)天皇崩御、中宮寛子落飾に接してまもなく出家、晩年は洛外(らくがい)に隠棲(いんせい)したらしい。この間、頼通の手厚い庇護(ひご)の下にあった寛子や六条斎院禖子(ばいし)内親王などを中心とした後宮歌壇で活躍、範永(のりなが)、経衡(つねひら)、頼家ら和歌六人党とも交流をもった。爛熟(らんじゅく)した後冷泉朝歌壇に才気を示し、家集に『四条宮下野集』がある。
[松野陽一]
心して風の残せるもみぢ葉を尋(たづ)ぬる山の峡(かひ)に見るかな
『清水彰著『四条宮下野集全釈』(1975・笠間書院)』