国兼村
くにかねむら
[現在地名]武生市国兼町
西南に入込む大塩谷の口にある。中世の大塩保の中心集落であったと思われる。江戸時代は福井藩領。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「大塩国金分」として高八九六・九八五石とある。正保郷帳から国兼と記され、田方八五五石余・畠方四一石余。寛政四年(一七九二)の支配下村々高家人数留(「越前宗門帳」所収)によれば、家数五六(うち高持二九・雑家二五)・人数二三〇。北陸街道沿いに一本杉、南の山麓に宮尾・西谷の枝村がある。
「越前国城蹟考」に「国兼村ヨリ十五町計巳午方東西五間南北十間計之所堀切之形有」と記された矢谷山城跡は、集落南方の八幡神社の裏山を登りつめた高岡峰山頂(二二四・二メートル)字城ヶ下谷にあたり、その西方谷間に矢谷・口矢谷の字名を残す。
国兼村
くにかねむら
[現在地名]珠洲市若山町延武 国兼、若山町宇都山
向村の北西、若山川左岸にあり、北西は延武村。中世以来の名を継ぐ地名で、その百姓の存在を伝える(能登志徴)。延武三箇の内。正保郷帳に村名がみえ、高七二石余、田四町二反余・畑五反余。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高七五石余、免四ツ二歩、夫銀四四匁余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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