百科事典マイペディア 「国後・目梨の戦」の意味・わかりやすい解説 国後・目梨の戦【くなしりめなしのたたかい】 1789年松前藩の〈奥蝦夷地(おくえぞち)〉に設けられた商場(あきないば)で起きたアイヌの蜂起。1669年−1671年のシャクシャインの戦で敗北した東西両蝦夷地のアイヌは,元禄・享保期(1688年−1736年)に場所請負(ばしょうけおい)制が成立すると,交易相手から漁場の労務者へと変質させられていった。しかしアッケシ(厚岸)・キイタップ(霧多布)・国後など〈奥蝦夷地〉のアイヌと松前藩との間には,商場での交易を主軸とする関係が続いており,アイヌはロシア人との交易を行うなど自立性を保っていた。三商場は1774年飛騨屋久兵衛の請負となったが,1786年幕府が直接経営に乗り出した。しかし,直営は1年で中止となり,飛騨屋は三商場の経営を交易から漁場経営に切り替え,商場内のアイヌを酷使した。1789年5月国後のアイヌが蜂起して商場の支配人らを殺害,さらに対岸のキイタップ商場内の目梨地方に渡り,同地のアイヌと合流して各漁場を相次いで襲撃した。松前藩は鎮圧隊を根室(ねむろ)半島ノッカマップに投入,国後やアッケシの首長らの協力を得て蜂起者を調べあげ,7月ノッカマップで蜂起参加者130名(国後41名・目梨89名)のうち,和人(シャモ)71名の殺害に関与した37名を処刑した。→関連項目最上徳内 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by