改訂新版 世界大百科事典 「場所請負」の意味・わかりやすい解説
場所請負 (ばしょうけおい)
江戸時代の蝦夷地(北海道・南千島,樺太の一部)における植民地経営の方式。18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。
近世初頭,松前藩は渡島(おしま)半島南部の和人地を直轄するとともに,それ以外の北海道の海岸部を,アイヌの各部族の支配領域に対応させて〈場所〉という領域に区分し,場所のアイヌとの交易独占権を上級家臣に知行として分与した。これは松前藩自体が江戸幕府から与えられた蝦夷地交易独占権を,家臣に分与した商場(あきないば)知行制とみられる。こうした場所持の家臣は毎年場所に交易船を派遣し,アイヌより得た特産物(干しザケ,干しニシン,煎海鼠(いりこ),コンブ,熊の皮など)を江差,松前(福山),箱館で換金して収入源とし,松前藩は3港に入港する商船(北前船)に移出入税(沖ノ口口銭)を課して財源とした。家臣はやがて場所との交易を商人にゆだねるようになり,また家臣や商人は自己の収益を増すために,交易品(米,酒,古着など)と特産物との交換率を引き上げてアイヌへの収奪を強めた。1669年(寛文9)のシャクシャインの戦は,このような和人の収奪強化に反発して起こったものだが,アイヌ側が敗北し,かえって商場知行制は強化された。
18世紀にはいると,蝦夷地の漁業が不漁に陥って場所持の家臣の財政が悪化したことと,本州各地で蝦夷地の海産物(肥料,食品)への需要が高まったことにより,各場所の経営を商人にゆだね,家臣は毎年一定の運上金を受け取るという方式(場所請負)が広まった。場所の経営を請け負う商人は場所請負人と呼ばれ,場所に支配人,通詞,番人などの和人を派遣し,事務所,宿舎,倉庫を兼ねた運上屋を建て,アイヌに漁法を教えたり,アイヌを使役して海産物の生産量を増大させて収益をあげた。初期の場所請負人の多くは,江差,松前に出店を構えて移出入に従事していた近江系商人である。松前藩自体も一部の場所を直轄していたが,これらも順次場所請負人に任され,藩の支配が南千島や樺太の一部に及ぶと,これらの地にも場所が設定された。1789年(寛政1)クナシリ・メナシで起こったアイヌの蜂起(クナシリ・メナシの戦)も,近年開始された請負人飛驒屋の過酷なアイヌ収奪が原因であった。
18世紀末にはロシアの蝦夷地周辺への進出に対応して,幕府は東蝦夷地を直轄し,アイヌ保護のために場所請負制を廃止したが,西蝦夷地では直轄後も場所請負制の存続を認めている。1821年(文政4)蝦夷地支配に復帰した松前藩は,場所の知行制は復活せず,藩の直轄のもとで場所請負制を継続した。この幕領期以後,場所請負人には近江系商人に代わって江戸系商人が進出し,和人漁夫の導入やアイヌ使役の徹底が図られ,場所経営が発展している。19世紀にはいると和人地の不漁や東北地方の凶作のため,蝦夷地に入り込む和人の出稼漁民が増加した。場所請負人は直接雇い入れる以外の和人漁民からは,二八役(漁獲量の2割を納入)という入漁税を取って場所での漁業を認め,一方彼らの漁獲物を買い取ったり,彼らに食料や漁具を前貸ししたりするようになった。以上のように場所請負制は,アイヌの酷使によりアイヌ人口の激減を招き,また出稼漁民への重税や前貸支配により,中小漁業経営の発展をさまたげた。明治維新後,明治政府は1869年(明治2)場所請負制を廃止し,請負人には過渡的に漁場持などの特権を与えたが,やがて漁業権を中小漁民に解放し,場所請負制は消滅した。
執筆者:長谷川 伸三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報