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蝦夷の居住地,のちアイヌの居住地を指す。蝦夷観念の変化に伴い蝦夷地の地域概念にも変化がみられた。大化前代には中央政府の外に立ってこれと敵対関係にある人々をエミシと呼び,おもに〈毛人〉〈夷〉という文字をあて,その意味も〈あらぶる者〉〈まつろわぬ人々〉ということで,特定の地域に住む人々を指すものではなかったが,大化改新以降は,主として北越・奥羽地方に住む人々をエミシと呼ぶようになり,文字も〈蝦夷〉〈夷〉をあてるようになった。その後古代律令制国家による東北エミシ政策が積極的に進められる中でエミシ観念も徐々に変化し,12世紀ころにはエミシの呼称がエゾとなり,その対象地域も東北北端部から北海道・千島にかけた地へと北上しただけでなく,その内容も従来の〈まつろわぬ人々〉から異民族としてのアイヌそのものを強く意識した概念となった。さらに鎌倉期以降は,蝦夷=エゾ=アイヌという概念がほぼ定着するとともに,対象地域も主として北海道以北の地を指すようになった。
こうして近世には,蝦夷=エゾ=アイヌ,蝦夷地=北海道および南千島(のち樺太も含む)という概念が定着したが,狭義には,北海道南部の和人地(松前地,シャモ地ともいう)以北の地を指す。これは,松前藩が領内統治策の一つとして,蝦夷地と和人地を厳密に区分し,その境に番所(西は熊石番所,東は亀田番所,のち山越内番所)を置いて,アイヌおよび和人の往来を取り締まり,和人の蝦夷地への定住,アイヌと和人百姓との直交易などを厳禁し,原則としてアイヌの居住地は蝦夷地,和人の定住地は和人地としたことによる。もっとも和人地内にも近世後期まで一定のアイヌが居住していたが,アイヌ民族全体からみれば,これは例外的な存在にすぎなかった。こうした地域区分策を実施したうえで,和人地に近い南部の蝦夷地を口(くち)蝦夷地・近蝦夷地,南千島を含む東北海道部を東蝦夷地・下蝦夷地,熊石以北宗谷までの日本海側および宗谷から知床岬に至る北海道西北部を西蝦夷地・上蝦夷地,樺太(現,サハリン)を当初カラト島・カラフト島,1809年(文化6)以降北蝦夷地と称したが,和人地の範囲が,近世初頭には西は乙部村,東は亀田以南の石崎村,17世紀末に西は熊石村,東は石崎村,1800年(寛政12)には小安~野田追間の箱館6ヵ場所の〈村並〉化に伴い東の境が事実上山越内(現,八雲町)まで北上するなど,若干の変動がみられたため,蝦夷地の南限も時代によって若干の変動がみられた。
近世における蝦夷地開発は,おおむね(1)近世初期~1798年,松前藩による蝦夷地支配の時期,(2)1799-1854年(寛政11-安政1),幕府直轄および松前藩復領期,(3)1855年~幕末,幕府再直轄期,の3段階を経て行われた。第1段階の時期は,松前藩の商場(あきないば)知行制をてこに藩主・知行主の商場内でのアイヌ交易ないしは漁場経営を軸に展開したところに大きな特徴がある。松前藩は,その大名知行権の中身が他藩のように石高に裏づけされた土地の支配権ではなく,蝦夷地交易の独占権という特殊な性格から,蝦夷地と和人地を厳密に区分し,蝦夷地を封建支配者層の独占的交易の場としたうえで,蝦夷地内に藩主の直営商場を設け,上級家臣にも知行として蝦夷地の一定地域(商場)でアイヌと交易する権利を与えた。こうした知行形態を商場知行という。また本州向け商品の少ない近世初期には,砂金の採取や鷹の捕獲を積極的に行った。したがって,近世初期の松前藩による蝦夷地経営は,砂金採取や鷹の捕獲などを除けば,商場を介したアイヌとの交易関係を軸に展開したが,商場の経営は早期に商人の請負経営に移行し(とくに家臣の商場にこうした傾向が強い),かつ17世紀末から18世紀初頭にかけて畿内先進地帯における商品作物用の魚肥需要の増大,上方市場との商品流通の発展などを背景に,経営形態も商場内でのアイヌ交易から請負商人による漁業経営へと変質し,18世紀後半には,蝦夷地内の各商場はすべて請負商人の経営するところとなった。それに伴いアイヌ民族は従来の交易相手という立場から漁場の労務者へ,しかも出稼和人漁夫の下に位する最下層の労務者へと強制的に転落させられ,封建権力と一体となった前期的商業資本による徹底的な収奪の嵐にさらされることとなった。
第2段階の前半は幕府による直轄と直さばきを軸として進行した。1789年のクナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起や92年のロシア使節ラクスマンの渡来などに刺激された幕府は,98年蝦夷地取締御用掛を設け,翌年東蝦夷地を仮上知し,1802年(享和2)永久上知とし,アイヌ交易や漁業経営は幕府の直営とした。次いで07年(文化4)蝦夷地全域を幕領とし蝦夷地交易の利益を独占しようとしたが,西蝦夷地については旧来の場所請負制を廃止することができず,12年には東蝦夷地についても場所請負制を復活した。21年(文政4)松前氏に還付されたが,場所請負制はじめ蝦夷地経営の方針はおおむね松前藩に引き継がれた。復領後の松前藩は前代の商場知行制を廃止し,蝦夷地全域を藩主の直轄としたうえで,各漁場の経営を全面的に商人に請け負わせたため,この期に至って場所請負制がいっそう発展するとともにアイヌ社会の破壊も一段と進んだ。
第3段階は幕府の再直轄という形で進んだが,第1回幕領の場合,主たる関心が直さばき実施による漁業収益に向けられていたのに対し,この期には国防上の方策として東北6藩による分領警備(1859)やアイヌの同化政策の強化などを実施すると同時に,移民による農業開発と新産業移植のための殖産興業政策を積極的に展開し,蝦夷地における諸産業の発展と生産力の増大を図ろうとした点で大きな相違がみられた。漁業についても場所請負制度そのものは存続させつつも,他方で旅人役・越年役などを免除して一般和人の蝦夷地への永住を許し,直接生産者層の育成を図り,1861年(文久1)には山越内番所での旅人改めも廃止するに至った。幕府再直轄期の蝦夷地政策は維新後の開拓使による北海道開拓政策に直接つらなる側面を多く内包していたが,69年(明治2)蝦夷地が北海道と改称され,蝦夷地の名は廃止されるに至った。
執筆者:榎森 進
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1869年(明治2)に改称されるまでの北海道の旧称。ただし、古代、中世は、夷狄ヶ島(えぞがしま)、蝦夷ヶ島という言い方が一般的であった。蝦夷地という呼称は、道南地域が渡来日本人すなわち「和人(わじん)」の地となって、松前(まつまえ)を称して以来、これと区別されたエゾ住地を意味し、道央から奥のアイヌ世界をさすようになった。したがって、中世後期以降、その体をなし、近世松前藩の成立とともにその称も定まったということができる。厳密には松前地区を含めないことになるが、一般には全島を含めてこの語で総称する。この呼称はいうまでもなく、古代蝦夷の伝統を近世に伝えたもので、日本史上のエゾ問題の最終章をなすものである。古代では北海道は、蝦夷国すなわち「道(みち)の奥(おく)」のさらなる奥島と考えられ、その意味で「渡島(わたりしま)」ともよばれたが、これを独立した地区と考えることはなかった。エゾ経営が東北地方北部まで志向する平安中期ごろから、これをエゾヶ島(夷狄ヶ島、蝦夷ヶ島、蝦夷ヶ千島(えぞがちしま))とよぶようになる。鎌倉幕府はここに間接的な成敗権を行使し、北条氏の被官安東(あんどう)氏が、津軽十三湊(とさみなと)(岩木川河口)に拠(よ)り、蝦夷管領(かんれい)として、この本州主権を代行していた。北奥の大豪族南部(なんぶ)氏が1443年(嘉吉3)安東氏を津軽から追い、安東氏はエゾヶ島に逃れた。安東氏は1456年(康正2)北羽に戻るが、この安東氏の渡道が、道南に中世武家時代を開く端緒になる。道南には「十二館」が成立、それらを統合して松前氏が、近世松前藩を成立させる。これら和人領主制確立の過程は、外にエゾとの戦いが強められ、彼らの領土を縮め、その利益を奪い、その結果として、彼らの抵抗を誘発する過程でもあった。1457年(長禄1)のコシャマインの戦い、1669年(寛文9)のシャクシャインの戦いは、そのうちでももっとも激烈な抵抗であった。このような戦いを勝ち抜いて、松前藩は、ウイマム(御目見(おめみえ)のアイヌ訛(なま)り)と称する朝貢貿易にこれを組織するほか、その公認された蝦夷地全域の独占的貿易権を「場所」ごとに分割、禄米(ろくまい)のない家臣団に知行(ちぎょう)相当に支配させた。知行主はさらにこれを特権商人に請負わせた。エゾ経済は、この場所請負制のもとに、急速に崩壊していった。幕末、抜荷(ぬけに)(密貿易)、外圧など、松前藩単独のエゾ地支配が不可能になってきたので、幕府はこれを直轄地とするようになり、何回かの変遷を経て、北海道に編成替えされた。
[高橋富雄]
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近世の北海道のうち,渡島(おしま)半島南端の和人地を除く,アイヌ民族の居住空間である地域。ただしアイヌは和人地内や津軽・下北半島にも居住していたから,アイヌの居住地域とは一致しない。また日本には北の境の観念がロシアとの対外的緊張が高まる以前はなく,北方に外延的な広がりをもつ化外(けがい)の異域であった。中世の蝦夷が島(夷島),蝦夷が千島の後に続く呼称で,17世紀後半頃から使われ始め一般化。1869年(明治2)北海道と改称した。近世の蝦夷地は和人地の東側に続く太平洋側方面を東蝦夷地(下蝦夷地),西側に続く日本海側方面を西蝦夷地(上蝦夷地)といい,知床岬を両者の境界とした。また09年(文化6)樺太を北蝦夷地とした。
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…(2)城柵経営 大化改新とともに古代国家の蝦夷経営は,北越から東北に舞台を移し,城柵を建造,柵戸(植民)を内国から移し,開拓を行いながら,フロンティアを北進させていき,出羽柵・秋田城(出羽国),多賀城・胆沢(いさわ)城(陸奥国)を中心に,経営は,秋田県八郎潟付近―岩手県盛岡市付近を東西に結ぶ線あたりまで北進した。(3)俘囚郷と蝦夷地 平安初頭の坂上田村麻呂の強力遠征は,古代国家の蝦夷経営の北限となった。岩手最北部,秋田北半部から北の日本は最後の蝦夷国として残る。…
…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…
…本姓高田で姓を屋号とした。兵庫を根拠に日本海・松前方面との廻船業を始め,1798年(寛政10)には箱館にも出店,幕府の北方政策に密着して1800年には択捉(えとろふ)島に至る航路や同島の漁場を開発し,01年(享和1)には幕府から蝦夷地定雇(じようやとい)船頭を命じられた。続いて蝦夷地東部にも場所請負の漁場をも経営,やがて箱館に本店,兵庫・大坂に支店を設けて手船数十艘を動かす有力商人となった。…
…箱館産物会所ともいう。江戸時代,蝦夷地の幕府直轄にともない蝦夷地産物取扱いのために設けられた幕府直営機関。1799年(寛政11)幕府は東蝦夷地を直轄し,その経営を直営とした際,蝦夷地産物の集荷・販売機関として箱館(現,北海道函館市)と江戸に会所を設け,全国枢要の地に御用取扱商人を置いた。…
…定員2名(うち3名),役料1500俵,席次は長崎奉行の次で芙蓉間詰。幕府は,1799年(寛政11)蝦夷地御用掛を置いて東蝦夷地を仮上知し,1802年(享和2)永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行,ついで箱館奉行と改め,蝦夷地(北海道)の本格的な経営に着手した。07年(文化4)松前氏を陸奥国梁川に移封するとともに,奉行所を松前に移して松前奉行と改めた。…
…江戸時代の蝦夷地(北海道・南千島,樺太の一部)における植民地経営の方式。18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。…
… このように化政期の国内状況には深刻なものがあったが,日本を取り巻く国際関係も寛政期と比べて緊迫の度を加えてきた。とくに蝦夷地(えぞち)を中心とするロシアとの紛争が頻発した。そこで幕府は東蝦夷地をまず直轄に移し,次いで東西ともに直轄として直接管理する姿勢をとったが,ロシアとの関係が安定すると,直ちに蝦夷地を松前藩に返付した。…
…面積は全国の約1/5にあたるが,人口は569万2321(1995)にとどまり,人口密度は73人/km2(施政権外の地を除く)であって,全国都道府県の中できわだって低い。
[沿革]
かつては蝦夷地(えぞち)とよばれていた。1855年(安政2)江戸幕府は松前藩に松前地方のみを残して他の蝦夷地を箱館奉行支配の直轄地とし,59年にはこれを分割して奥羽6藩(仙台,盛岡,弘前,秋田,会津,庄内)の領地ならびに警衛地とした。…
…1833年(天保4)から日本国中を遊歴し,38年から5年間長崎,平戸で僧となり,名を文桂と改めたが,この間長崎の乙名(おとな)津川文作から北方の事情を聞いて関心を強め,44年(弘化1)帰郷して還俗したうえで単身北行した。翌45年東西蝦夷地,46年北蝦夷地(樺太),49年(嘉永2)国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島を探査し,《初航蝦夷日誌》《再航蝦夷日誌》《三航蝦夷日誌》などを著した。54年(安政1)江戸幕府が箱館奉行を置いて翌55年蝦夷地を再直轄すると,幕府御雇として蝦夷地御用掛に起用され,56年から58年まで東西蝦夷地,北蝦夷地を探査して《竹四郎廻浦日記》《東西蝦夷山川取調日誌》《東西蝦夷山川取調図》などを著した。…
…松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。…
※「蝦夷地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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