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最上徳内 もがみとくない

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

最上徳内
もがみとくない

[生]宝暦4(1754)? 羽前
[没]天保7(1836).9.5. 江戸
江戸時代末期の蝦夷地探検家。名,常矩。農民の出身で幼時から数理計測を好んだ。のち蝦夷地におもむき,ロシア船の出没を知って松前藩主に防備の献策を行い,帰府して本多利明の塾で測量学,地理学などを学んだ。

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デジタル大辞泉の解説

もがみ‐とくない【最上徳内】

[1754~1836]江戸後期の探検家。出羽の人。名は常矩(つねのり)。本多利明に天文・測量などを学び、天明5年(1785)幕命による蝦夷(えぞ)地調査に随行。のち、択捉(えとろふ)得撫(ウルップ)樺太(からふと)などを数次にわたり調査・探検。著「蝦夷草紙」「度量衡説統」、シーボルトとの共編「アイノ語辞典」などがある。

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百科事典マイペディアの解説

最上徳内【もがみとくない】

江戸後期の北方探検家。出羽(でわ)国村山郡の人。1781年江戸に出て,のち本多利明の音羽(おとわ)塾に入り,天文・測量を学ぶ。利明の推薦により1785年以来幕府の蝦夷(えぞ)地探検に参加,1789年の国後(くなしり)・目梨(めなし)地方のアイヌ蜂起(国後・目梨の戦)の際に幕府密偵青島俊蔵に連座して投獄されたが,のち嫌疑が晴れて再び幕府に取り立てられ,樺太(からふと)(サハリン),択捉(えとろふ)など蝦夷地調査を続けた。
→関連項目村山[市]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

最上徳内 もがみ-とくない

1755-1836 江戸時代中期-後期の探検家。
宝暦5年生まれ。江戸で本多利明に天文,測量などをまなぶ。天明5年(1785)以降幕府の蝦夷地(えぞち)調査隊にくわわり,択捉(えとろふ)島,ウルップ島などにわたる。のちシーボルトに蝦夷地図を貸与し,アイヌ語辞典を共編した。天保(てんぽう)7年9月5日死去。82歳。出羽(でわ)村山郡(山形県)出身。本姓は高宮。名は常矩(つねのり)。著作に「蝦夷草紙」「度量衡説統」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

最上徳内

没年:天保7.9.5(1836.10.14)
生年:宝暦5(1755)
江戸後期の北方探検家。出羽(山形県)の農家の生まれ。生来学を好み天明1(1781)年江戸に出て幕府の医師の家僕となり,本多利明に学ぶ。同5年利明に代わって幕吏と国後島に至り,翌年は単身択捉島とウルップ島に渡る。ロシア人に千島事情を聞き,驚いて北辺の急を幕府に報告。しかし,このときは田沼意次失脚の政変があって幕府に採用されなかった。失職して辛苦するが,寛政1(1789)年アイヌの騒乱あると,いち早く急を報じ,再び採用され千島に至った。上司(青島俊蔵)の失策のため投獄されるが,疑いが晴れるとかえって重用され,樺太のことにまで関与した。文化4(1807)年ロシア船が来航,支配調役としてひろく北方警備のことを監察し,またアイヌ交易の改善にも大いに努力した。文をよくしその著『蝦夷草紙』は著名である。また松前藩の禁令にもかかわらずアイヌに文字を教え,通詞にアイヌ語辞書を出版させたりした。蘭医シーボルトの信頼厚く,その著書『日本』によって徳内の名はつとに外国にも知られた。<参考文献>島谷良吉『最上徳内

(井黒弥太郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

もがみとくない【最上徳内】

1755‐1836(宝暦5‐天保7)
江戸末期の北方探検家。出羽国村山郡楯岡村(現,山形県村山市)の農民の子。1781年(天明1)江戸に出て幕府の医師山田宗俊(図南)の家僕となり,のち本多利明の音羽塾に入って天文,測量を学んだ。85年利明の推薦で幕府の蝦夷地調査一行の竿取となり,翌年にかけて国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島を調査し,ついでウルップ島に渡った。89年(寛政1)国後,目梨地方のアイヌの蜂起調査のため幕府の密偵青島俊蔵らと松前に渡ったが,青島が松前藩に助言を与えたかどにより処罰された際,不運にも連座して投獄された。

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大辞林 第三版の解説

もがみとくない【最上徳内】

1754~1836) 江戸後期の探検家。出羽の人。本多利明に天文・数学・測量を学ぶ。1786年幕府の蝦夷地えぞち調査の一員となる。以後、蝦夷・樺太・千島を探検・調査。「蝦夷草紙」を著した。アイヌの生活・言語に精通、アイヌ保護を献策した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

最上徳内
もがみとくない
(1755―1836)

江戸後期の蝦夷(えぞ)地探検家。名は常矩(つねのり)。出羽(でわ)国村山郡楯岡(たておか)村(山形県村山市)の貧農に生まれる。江戸に出て本多利明(ほんだとしあき)に天文、測量などを学ぶ。1785年(天明5)利明にかわって幕吏青島俊蔵(1751―1790)に随行し蝦夷地に渡り、国後(くなしり)に至る。翌1786年単身で択捉(えとろふ)、得撫(うるっぷ)に渡り、ロシア人と接触しロシアの北方進出を知り、北方問題の重要性を認識する。1789年(寛政1)国後・目梨(めなし)の戦いに際し、ふたたび青島と蝦夷地に渡り、青島の罪に連座して入牢(にゅうろう)するが、のちに無罪となる。1791年択捉、得撫、翌年樺太(からふと)を探検。1793年『関東十州川船改所用地図』の作製にかかり、1795年完成、上納する。1798年近藤守重(こんどうもりしげ)(重蔵(じゅうぞう))と択捉に赴き「大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ)」の標柱を建てる。1805年(文化2)、1806年に目付遠山景晋(とおやまかげみち)(1764―1837)の西蝦夷地見分を案内して普請(ふしん)役元締格となり、1807年箱館奉行(はこだてぶぎょう)支配調役並となる。同年ロシア船の樺太、択捉、利尻(りしり)襲撃事件のときは斜里(しゃり)の津軽藩兵を指揮、1808年には樺太に派遣され会津藩兵監察となる。蝦夷地に渡ること9回、当時随一の蝦夷通として知られた。1826年(文政9)江戸参府中のシーボルトを訪問、蝦夷地地図を貸与するとともに北方に関する知識を提供、またシーボルトと共編で蝦・日・蘭(らん)・独語の『アイノ語辞典』を纂(さん)した。シーボルトはその著『日本』で徳内を高く評価している。天保(てんぽう)7年9月5日没。著書に『蝦夷草紙』『蝦夷拾遺』(以上、北門叢書(そうしょ)所収)、『度量衡説統』(日本経済叢書所収)などがある。[船津 功]
『島谷良吉著『最上徳内』(1977/新装版・1989・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の最上徳内の言及

【アイヌ語】より

…同書は《蝦夷方言藻汐草(もしおぐさ)》の名でも知られ,のち上原の手で増補されて《蝦夷語集》(稿本,1824ころ成立)として伝えられている。この《もしほ草》の刊行を助けたのが最上徳内で,彼みずからもアイヌ語を身につけており,オランダのライデン大学図書館には,徳内とシーボルト共編の《蝦夷嶋言語Yezogasima Kotoba》(写本)が所蔵されている。国外ではロシアの海軍士官ダビドフGavriil I.Davydov(1784‐1809)編の《樺太アイヌ語彙》(未刊)が古い。…

【千島列島】より

…以後狩猟,交易,毛皮貢税(ヤサク)徴収を目的に千島への進出はいっそう顕著になり,68年(明和5)コサックの百人長チョールヌイIvan Chyornyiが毛皮貢税徴収のため択捉島まで到達したのをはじめ,78年には,シベリアの企業家ラストチキンの派遣したシャバーリン一行が根室半島のノッカマプ,次いで翌79年厚岸に来航して松前藩吏に通商を求めるに至った。 幕府もこのころから北方への関心を強め,85年(天明5),86年山口鉄五郎,最上徳内らを千島調査に派遣し,最上徳内はウルップ島まで探検して同島以北のロシア人の動向について情報を得た。その後,89年(寛政1)国後・目梨地方(メナシはアイヌ語で〈東〉の意で,現在の目梨・標津(しべつ)両郡の沿岸地区)のアイヌが蜂起したこともあって(国後・目梨の戦),98年幕府は再度千島を調査し,近藤重蔵が択捉島に〈大日本恵登呂府〉の標柱を建てた。…

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