土居通増(読み)どいみちます

日本大百科全書(ニッポニカ) 「土居通増」の意味・わかりやすい解説

土居通増
どいみちます
(?―1336)

鎌倉末・南北朝時代初期の武将通称彦九郎。伊予の豪族河野(こうの)氏の支族で通成(みちなり)の子。伊予権介(いよごんのすけ)、のち備中守(びっちゅうのかみ)に任ず。久米(くめ)郡石井(いしい)郷南土居(松山市)が本拠。『太平記』は「土居二郎(通治(みちはる))」「河野備後守(びんごのかみ)通治」などと載せ、『大日本史』もこれに従って実名通治をとっているが誤り。元弘(げんこう)の変では同族得能通綱(とくのうみちつな)らとともに討幕に活躍。のち南北朝の対立となると河野氏宗家に反して南朝方につき、湊川(みなとがわ)の戦いにも参加したが、1336年10月、新田義貞(にったよしさだ)の北国落ちに随行する途中、越前(えちぜん)荒乳(あらち)の中山風雪と敵襲のため戦死した。

[杉橋隆夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土居通増」の解説

土居通増 どい-みちます

?-1336 鎌倉-南北朝時代の武将。
伊予(いよ)(愛媛県)の豪族河野氏の支族。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年得能通綱(とくのう-みちつな)らとともに挙兵,隠岐(おき)を脱出した後醍醐(ごだいご)天皇を兵庫にむかえる。南北朝の動乱では新田義貞(よしさだ)にしたがって足利尊氏軍とたたかったが,建武(けんむ)3=延元元年10月11日越前(えちぜん)愛発(あらち)の中山(福井県敦賀市)で戦死。通称は彦九郎。

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世界大百科事典(旧版)内の土居通増の言及

【河野氏】より

…惣領家の通盛は,最初鎌倉幕府に味方したが,幕府滅亡後は足利尊氏に従った。庶子家の土居通増や得能通綱は南朝方にくみし,新田義貞に従った。この間通盛は足利氏によって伊予の守護に任ぜられ,また拠点を河野郷から温泉郡湯築城(現,松山市道後)に移した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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