土川村(読み)つちかわむら

日本歴史地名大系 「土川村」の解説

土川村
つちかわむら

[現在地名]小千谷市土川・城内じようない四丁目

東と南は小千谷村、西は藪川やぶかわ村、北は千谷川ちやがわ村。枝村に天王てんのう笹田ささだがある。文明三年(一四七一)一二月二七日の上杉家(房定)老臣奉書(毛利安田氏文書)には「一所吉谷之内土川名」が「同内山崎名」「同内番匠免名」などとともに毛利越中守に功賞として知行を安堵されている。山崎は四ッ子よつこに小字山崎やまざきがあり、番匠免ばじようめんは当村から藪川に至る辺りに「ばじょうめん」の地があったと伝える。永正一二年(一五一五)閏二月七日の長尾為景奉書(同文書)には「魚沼郡吉谷内土川名山田分」が安田(毛利景元)に安堵されている。慶長二年(一五九七)一二月一三日の上杉家奉行人連署知行書出(魚沼神社文書)によると、河村彦左衛門の検地によって当村と吉谷よしだに村・藪川村の高五〇七石五斗余のうち高四〇二石余が上弥彦かみやひこ社領として神主蔵田与三に付された。


土川村
つちかわむら

[現在地名]馬路村馬路 土川

相那あいな村の北方安田やすだ川上流に位置し、土川とその北にある槌之尾つちのおの二集落からなる。槌川・鎚家尾とも記し、「土佐州郡志」は「伝云、昔有木槌流下、里人泝流求索至此、始知有人、因名」とある。天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳には「自是鎚峨尾村鎚」とあり、「安田分」二四筆が記されるが、いずれも「鎚峨尾村つちか尾名」とある。


土川村
つちかわむら

[現在地名]中島町土川

日用ひよう川上流に位置し、山に取囲まれた盆地の村。東は豊田とよた村、南は山地を隔てて羽咋はくい釈迦堂しやかどう村・栗山くりやま(現志賀町)。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高三八八石余。正保郷帳では高三九六石余、田方二三町五反余・畑方二町九反余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)によれば高五二一石、免五ツ五歩。同年加賀藩直轄領となり、延宝七年(一六七九)の村御印(土川区有文書)の高六九九石、免三ツ八歩、小物成は山役一五二匁・苦竹役五匁・鳥役五匁。


土川村
つちかわむら

[現在地名]岩手町土川

一方井いつかたい川とその支流沿いに広がり、東は久保くぼ村、西と北は一方井村、南は堀切ほりきり(現西根町)。元禄十郡郷帳では一方井村に入るとある。元文三年(一七三八)の給人書上によれば、藤田治五右衛門は当村などで五〇石を知行し、「享保十四年願上被下置候新田野竿高今以披揃不申候」と記す。「邦内郷村志」では蔵分一〇四石余・給分六〇石、家数一九。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二五、うち本村一四で、枝村は新田しんでん九・沼田ぬまた二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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