日本大百科全書(ニッポニカ) 「土平治騒動」の意味・わかりやすい解説
土平治騒動
どへいじそうどう
江戸後期、相模(さがみ)国(神奈川県)に起こった打毀(うちこわし)。松平定信(さだのぶ)が老中主座に就任し、寛政(かんせい)の改革が始まってまもない1787年(天明7)12月22日の夜、相州津久井(つくい)郡久保沢(くぼさわ)宿(上川尻(かみかわしり)村)の打毀から、翌年正月6日夜の愛甲(あいこう)郡田代(たしろ)村、半原(はんばら)村の打毀まで、四度にわたって酒造屋の打毀が起こった。飢饉(ききん)に際し不正を働き暴利を得た酒造屋や在方商人たちが打毀されたもので、指導者の名前をとって「土平治騒動」とよばれている。土平治は、津久井郡牧野村篠原(しのばら)組の組頭茂兵衛(もへえ)の倅(せがれ)で、本名は専蔵といったが、「民を平に治める」という意で、打毀以前の村方騒動のころからこの名を使用していた。実際に土平治が指導したのは、12月28日夜の津久井郡日連(ひづれ)村勝瀬の酒造屋惣兵衛(そうべえ)の打毀からであった。この打毀は、土平治が「落文」をし、上郷(かみごう)の人々を結集して決行したという。そして、翌正月4日には、一夜にして三か村(青山村、中野村川和(かわわ)、鳥屋(とや)村)五軒の酒造屋が打毀され、続く正月6日の田代村、半原村の酒造屋打毀をもって終息した。この騒動では、土平治、伴蔵こと重郎兵衛(津久井郡青野原村)、利左衛門(同村)の3人が死罪となった。その犠牲と引き換えに、幕府に買占め、酒造隠し造り禁止令を出さしめ、寛政の改革時の物価政策に大きな影響を与えた。
[川鍋定男]