地黄村(読み)じおうむら

日本歴史地名大系 「地黄村」の解説

地黄村
じおうむら

[現在地名]能勢町地黄

野間のま諸村の北、野間川支流の木野きの川上流域に位置する山間村。東は山地を隔てて丹波国桑田くわた神地こうじ(現京都府亀岡市)。村内を南北に能勢街道が通り、斉院庄さいいんのしよう上地黄かみじおう中町なかまち南町みなみまち旬村とがむら・木野の集落がある。地黄北山じおうきたやま遺跡は縄文弥生古墳時代の長期にわたる複合遺跡。横町よこまち遺跡からは製鉄跡とみられる鉄滓・炉が弥生土器片とともに見いだされ、地黄機姫塚じおうはたひめづか古墳は横穴式石室をもつものとみられる。古代・中世にはこの地に典薬寮支配の地黄園がおかれていた。地黄の地名は当地で地黄草を多く産したことに由来すると考えられる。壬生家文書のなかに保延六年(一一四〇)の今富名坪付案があるが、この今富いまとみ名は公田能勢郡採銅所の所用にあてられたもので、国衙領が庄園化したものと考えられ、地黄を中心に野間にかけての地域がそれにあたり、当時は能勢村(同坪付案)と称していた(能勢町史)


地黄
じおうせんむら

[現在地名]金沢富樫とがし一―三丁目・いずみおか一―二丁目・弥生やよい二―三丁目・円光寺えんこうじ三丁目・泉野出町いずみのでまち三丁目・寺地てらじ一丁目・有松ありまつ一丁目

寺地村の北東に位置し、北は泉野村。万治元年(一六五八)から寛文八年(一六六八)にかけて泉野村百姓が城下南郊の荒野泉野の西南辺を開墾して成立した村で、泉野新百姓いずみのしんひやくしよう・泉第新村・泉野新田ともよばれた。地黄煎の地名はもと強壮薬の地黄煎を産したことに由来するとか(亀の尾の記)浄専じようせん寺という寺名が変化して生じたなどといわれ(加賀志徴)、天保期(一八三〇―四四)に地黄煎村に改称した。


地黄村
じおうむら

[現在地名]橿原市地黄町

妙法寺みようほうじ村の東、飛鳥川西岸に位置。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「地黄」の地名がみえ、天正年間(一五七三―九二)の蓮成院日録裏文書(興福寺文書)に春日社夏中屋談義田としてみえる地黄領の小字柳田やなぎだ立花たちばなは現存。文禄四年(一五九五)の検地による村高四一〇・五五石。慶長五年(一六〇〇)以降旗本神保氏(相茂系)領として幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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