日本歴史地名大系 「坂原村」の解説 坂原村さかはらむら 群馬県:多野郡鬼石町坂原村[現在地名]鬼石町坂原雨降(あめふり)山(一〇一二・五メートル)の南に位置し、南境を神流(かんな)川が東流、東は保美濃山(ほみのやま)村、北は緑野(みどの)郡三波川(さんばがわ)村、西は柏木(かしわぎ)村(現万場町)、南は武蔵国秩父(ちちぶ)郡と接する。村央を東西に十石(じつこく)街道が通る。甘楽(かんら)郡に属した。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「発久同坂原共」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。寛文郷帳では幕府領、江戸後期の御改革組合村高帳では旗本松平領。寛文郷帳には元禄郷帳では当村の枝村となる法久(ほつく)村・簗瀬(やなせ)村・高瀬(たかせ)村・沼(ぬま)村とともに記され、五ヵ村の高合計一九六石余はすべて畑方。 坂原村さかわらむら 鳥取県:八頭郡智頭町坂原村[現在地名]智頭町坂原岩神(いわがみ)村の南西、新見(にいみ)川左岸の段丘上に集落が発達。北西方向に籠(かご)山がそびえる。拝領高は九六石余。青木氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高一〇五石余、毛付高一五八石余、本免六ツ七分、同年の物成高一〇〇石余、ほかに川役米五升が課されていた。天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)と推定される書上(古田家文書)では田畑畝数一〇町二反余、家数二三・人数一一一、牛二二。「因幡志」では家数一八。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高一五四石余、竈数二三。 坂原村さかはらむら 京都府:船井郡和知町坂原村[現在地名]和知町字坂原本庄(ほんじよ)村の北西、由良川北岸に位置する。川の沿岸部は狭く(二〇〇メートルほど)、東から北にかけて広い村域をなす。東と北は五〇〇メートル以上の山が連なり、水は南斜面を流れ下り由良川に注ぐ。この谷川を中心に耕地が開け人家も点在するが、集落の中心は由良川沿いにある。東は下乙見(しもおとみ)村、南は由良川を越えて安栖里(あせり)村、西は中(なか)村、北は西河内(にしかわち)村。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by