垂井村(読み)たるいむら

日本歴史地名大系 「垂井村」の解説

垂井村
たるいむら

[現在地名]垂井町 垂井

現町域のほぼ中央に位置し、村域をあい川が南東流する。古くから交通の要衝で、近世には中山道垂井宿を形成、同宿より美濃路が分岐し、また美濃一宮の南宮なんぐう神社の門前でもあり、早くから町場化していた。文献上は樽井・足井ともみえ、地名は古代より親しまれた垂井の泉より生じたという。慶長五年(一六〇〇)七月の永井直勝宛増田長盛書状(板坂卜斎覚書)によれば石田三成方の大谷吉継が樽井に滞留している。慶長郷帳に樽井とみえ、高七二一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では田高三八石余・畑高七一八石余のうち南宮領二二石、金蓮こんれん寺領三五石、ほかは幕府領。元禄郷帳でも変化はないが、明和七年(一七七〇)に幕府領は大垣藩預所となっている(岐阜県史)

垂井村
たるいむら

[現在地名]橋本市隅田すだ町垂井

山内やまうち村の南、紀ノ川右岸の河岸段丘上の平坦地にあり、隅田庄の鎮守隅田八幡宮がある。条里地割が残り、古くから開発されたことがうかがわれる。中世は隅田庄に属し、仁安元年(一一六六)一一月日付の公文藤原忠村田畠等処分状案(隅田家文書)にみえる「字隅田田井鳥居坪」は当村に比定される。「続風土記」に八幡宮の境内を小名だんというとあり、慶長検地高目録には宮之段みやのだん村として別に一村とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報