城廻村
しろまわりむら
[現在地名]内子町城廻
小田川の支流中山川と麓川の河間の地を占める小村。戦国末期の曾根城周辺に位置することから、村名が付けられた。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「城廻村 茅山有、川有」とみえる。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「土産 米上・大豆・紙・鮎・カジカ、古跡 曾根城、城主曾根左衛門佐高昌、同式部宣高」とある。宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)によると、半紙漉一一五人、楮仲買二人がいる紙漉の村であった。
城廻村
しろめぐりむら
[現在地名]鎌倉市城廻・玉縄四丁目
玉縄城跡の西・北麓に位置し、北は田谷村・小雀村・長尾台村(現横浜市戸塚区)、東は植木村・岡本村、南は渡内村・柄沢村(現藤沢市)、西は関谷村に接する。正保国絵図に村名が載る。皇国地誌によるともと付近の村々とともに玉縄村と称していたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分村し、その際、城の廻りにあるので城廻村としたという。
近世は初め幕府直轄領、次いで玉縄藩領、その後旗本領と幕府直轄領の三給。
城廻村
しろめぐりむら
[現在地名]下妻市下妻
下妻城跡を取巻く地にある。慶長七年(一六〇二)に伊奈忠次の検地によって下妻町を分割して成立した(下妻市史)。元禄郷帳の村高は三五三石余で、享保年間(一七一六―三六)の家数は本百姓二九五・水呑百姓九一、人数は男一千一三九・女五三〇であった(下妻市史)。正徳三年(一七一三)の東当郷村明細帳(早川家文書)によれば、東当郷村に六〇石余の出作をし、東当郷村からは九石余の入作があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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