城田郷(読み)きだごう

日本歴史地名大系 「城田郷」の解説

城田郷
きだごう

和名抄」高山寺本は「岐多」、東急本は「木多」の訓を付す。「太神宮諸雑事記」天平二〇年(七四八)条に「件小松以去十五年正月廿三日度会郡城田郷字右イ鴨村新築固池一処既畢」とみえ、その成功によって津島朝臣小松を従五位下に叙し、宮司に任じている。「神鳳鈔」には「内城田郷」「外城田郷」がみえる。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には「字賀茂池」「山上村十五条五田里字小山田垣」「矢野村字坪井迫」「矢野村字大辻垣内」「城田(郷)七鴨里十四五六坪内字中波佐見将田村」「城田郷廿条五久具里廿三坪」「野辺村三尊寺」などがみえ、内城田うちきだ郷には「久具村」「上津久田村」「下小河村」「南迫」「長津久田村」「牧戸」「大橋御園」、外城田ときだ郷には「岩坂村」が含まれている。


城田郷
きたごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「城田は支田と訓ムべし」とするので「きた」であろう。現方城ほうじよう弁城べんじようにある岩屋いわや神社は「養老年間、福智山の法頭坊城田岩屋祠を建てて祭る」との起源をもっており(田川郡史蹟調査書)、正平一一年(一三五六)金田庄内金田村作田取帳(二階堂文書/南北朝遺文(九州編)四)に「一、金田村 城田郷」とあり、文和二年(一三五三)一月一六日の大友氏時寄進状案(興国寺文書/南北朝遺文(九州編)三)にみえる「志生木田」(鋤木田、現赤池町)は当郷に関係のある地名とも考えられる。


城田郷
きだごう

平安時代末期からの郷名。古代の田川郡城田きた(和名抄)を継承したとみられる。遠賀おんが川支流彦山川の下流域周辺の金田かなだ町・方城ほうじよう町・赤池あかいけ町および直方のおがた上境かみざかい・下境付近に比定される。康和三年(一一〇一)一〇月二二日の経筒銘(伊藤庄兵衛氏旧蔵/平安遺文 金石文編)に「田河城田郷往生院」とみえ、同院住僧の天台僧清源が法華経を書写している。この往生院は、建久二年(一一九一)三月一〇日に近江太郎による押領の停止を訴え出た「豊前国堺御庄往生院々主春宗」の往生院と同じと思われ(「春宗申状案」志賀文書/鎌倉遺文一)、郷域はさかい(現直方市)にまで及んでいたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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