伊勢国(読み)イセノクニ

デジタル大辞泉 「伊勢国」の意味・読み・例文・類語

いせ‐の‐くに【伊勢国】

伊勢

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日本歴史地名大系 「伊勢国」の解説

伊勢国
いせのくに

伊勢国の名は「古事記」「日本書紀」にしばしば現れる。その代表的なものは、「日本書紀」垂仁天皇二五年の伊勢神宮鎮座を記した条であって、天照大神の言葉として「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重波帰する国なり。傍国の可怜し国なり」と伊勢国を賛美する。この国号については「伊勢国風土記」逸文に、神武天皇が日向より大和へ東征した際、その部将天日別命を派遣して伊勢の地を平定したとの神話を載せる。それによると、それまでこの地は伊勢津彦が支配していて服従しなかったので武力を行使しようとすると、伊勢津彦は夜中に大風を起こして高い波に乗り、太陽のように照り輝きながら東へ去った。これを神武天皇に報告すると、国の名は伊勢津彦の名をとって伊勢と名付けよとの言葉があり、天日別命の封地としたというものである。この神話は大和朝廷が先住土着勢力を征服して領有統治したことを説明するとともに、「伊勢」の国号が大和朝廷統治以前からあったことを述べようとしたものといえる。

「伊勢」の語義については「日本書紀私見聞」引用の「伊勢国風土記」逸文に、伊勢津彦が石でを造ってここにいたとの説話が記されている。すなわち「イセ」は「石城いしき」の音訛と説こうとするものである。ほとんどの近世の諸学者はこれを採らず、伊勢の生んだ国学者谷川士清は「和訓栞」に、「いせ」は「五十瀬いそせ」の転訛であって「川瀬の多きよりの名なるべし」との説を立てるなど、諸説があり未だ定説はない。

古代

〔大和朝廷との関係〕

伊勢国が大和朝廷の支配下に入ったのは、大和朝廷による国家成立の四世紀頃と考えられるが、それからあと大化改新頃までの大和朝廷の伊勢国内統治はそれほど強力なものではなかったと推定されている。記紀に現れる伊勢国関係記事は、伊勢神宮または日本武尊に関する記事を除くときわめて少なく、大和朝廷に奉仕する品部は、「日本書紀」雄略天皇一七年三月条と安閑天皇元年閏一二月条に現れる贄土師部だけであり、皇室の直轄地屯倉は、宣化天皇元年五月条に現れる新家にのみ屯倉(現久居市に比定)がそれと推定されるにとどまる。伊勢国に皇室の祖先神を遷座するようになったのは、伊勢国が大和朝廷にとってそれだけ重要度の大きい地域へと成長したことにほかならない。日本武尊が東国遠征にあたって伊勢神宮に参拝し、叔母の倭姫命から草薙剣と火打石とをもらい、それを用いて東国を平定したこと、そして伊勢まで帰って来てここで没したこと、あるいは「日本書紀」に記された捕虜の蝦夷を伊勢神宮へ献上したことなどの伝説は、大和朝廷の東国経営にかかわっているとされる。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊勢国」の意味・わかりやすい解説

伊勢国 (いせのくに)

旧国名。勢州。現在の三重県東部。

東海道に属する大国(《延喜式》)。国名は,〈伊勢国風土記〉逸文に,伊勢津彦が国土を献じ,風を起こし波に乗って東方に去ったので,神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がある。〈神風の〉という伊勢の枕詞もこれによる。国府は現在の鈴鹿市国府町にあった。桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ)/(あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。伊勢神宮は,垂仁天皇の世に倭姫命が五十鈴川上に天照大神の斎宮をたてたのが内宮のはじまり,雄略天皇の世に豊受大神を山田原にまつったのが外宮のはじまりとされる。桑名市の旧多度町の多度神社は,鉄工業の神として古来尊崇され,788年(延暦7)の〈神宮寺伽藍縁起幷資財帳〉がある。

 古くは川俣,安濃,壱志,飯高,佐奈の(あがた)に県造が置かれたといい,度会県も見える。孝徳天皇のとき,度会,竹(多気)の評(こおり)がおかれ,伊勢神宮の経費を負担する神郡(しんぐん)の起源となり,664年(天智3)多気評から飯野評が分置された。680年(天武9)に伊賀国が伊勢国から分かれたともいう。

 672年の壬申の乱に,天武天皇は吉野から鈴鹿峠を通って伊勢に入り,北上して桑名郡から美濃に至った。東海道(国道1号線)に沿う経路である。東海道には鈴鹿郡から南下して志摩国に至る支路がある。鈴鹿関はこのころ設置されたらしく,亀山市の旧関町にあったとされ,畿内から東国に出る要地を押さえる。不破(ふわ),愛発(あらち)とともに律令制下三関として重視されたが,789年に廃止された。伊賀国南部から伊勢に入る道に川口関(津市,旧白山町川口)があり,平城宮出土木簡などに見える。持統天皇は692年に志摩国に行幸し,聖武天皇は740年(天平12)藤原広嗣の乱に際し,壱志郡河口頓宮に滞在した。川口関の所在地で関宮ともいう。その後北上して桑名郡から美濃に入り,恭仁(くに)京に移った。両度の行幸に関する作歌が《万葉集》にある。

 平安時代に入ると,神宮領の拡大が顕著で,897年(寛平9)飯野郡が神郡となり,神三郡が成立,これを道後(みちのしり)とも称した。940年(天慶3)員弁郡,962年(応和2)三重郡,973年(天延1)安濃郡,1017年(寛仁1)朝明郡,1185年(文治1)飯高郡と道前(みちのさき)の5郡が増加して神八郡となった。
執筆者:

平安後期に荘園が急増する社会的傾向の中で,伊勢神宮領は神郡に加え御厨(みくりや),御薗(みその)が全国的規模で拡大し,神宮の権威を頼って所領を寄進する貴族・在地領主も数多く,13世紀初頭には神宮領は全国で1380余ヵ所にのぼった。一方,伊勢国内にも神宮領をはじめ寺社領などが増えていった。国内荘園としては当国最大のものとして飯野・多気両郡にわたる東寺領大国荘・川合荘があげられる。8~9世紀以来の既墾地系荘園であるが,飯野郡が神郡に加えられたころから伊勢神宮と東寺との争いが絶えず,これに公領確保を目ざす国司が加わって,平安末期には3者による紛争が激化した。この中から台頭してくるのが在地の田堵(たと)・名主(みようしゆ)層で,彼らは3者の争いの間隙をついてみずからの勢力伸張をはかった。このような田堵・名主層台頭の傾向は伊勢に限られたことではなく,平安末期には関東から九州に至るまで全国的に見られた現象である。この新興勢力を基盤とし,ある意味では彼らに利用されて権力を伸ばしたのが武士層にほかならない。伊勢で最も力を伸張した武士は,俗に伊勢平氏と呼ばれる桓武平氏の一流であった。

 伊勢平氏の祖は桓武天皇6代の孫維衡(これひら)といわれる。彼の父は平将門(まさかど)追討に功のあった貞盛で,その子維衡がどういう由縁で伊勢と関係をもつようになったかは明らかでない。維衡は1006年(寛弘3)に伊勢守に補任されるが,すでにそれ以前に一族の平致頼と在地支配をめぐって伊勢で武力衝突を起こしており,伊勢守就任以前から同国に支配を及ぼしていたことだけは確実である。維衡ののち一族は伊勢全土から伊賀,尾張,三河にまで繁衍(はんえん)する。この中には伊勢,安濃津(あのつ),桑名,富津(とつ)あるいは柘植(つげ)といった伊勢・伊賀の地名を冠して呼ばれる者もあった。維衡の曾孫正盛,その子忠盛の代に至り白河・鳥羽両院政の下で中央政界に頭角を現した平氏は軍事権門へと成り上がる。忠盛は武士として初めて内昇殿をゆるされるが,これをねたんだ貴族たちが〈伊勢瓶子(平氏)は酢瓶(眇目)(すがめ)なりけり〉と言ってからかったという話は《平家物語》で有名。正盛,忠盛は伊賀から大和にまで所領を拡大するが,伊勢における彼らの本拠は安濃津から桑名に至る北伊勢にあったと思われる。平氏一門に関する伝説地は伊勢全土にわたって残存するが,一門の関係所領がほとんど鈴鹿郡以北に偏在することから見て,北伊勢を本拠としていたのはほぼまちがいない。その中でもとくに安濃津桑名,富津は,海上交通の盛んな当時にあっては,交易・軍事上の重要拠点で,ここを押さえた平氏はいわば水運の掌握者,水軍の組織者としての地歩を固めたといってよい。現に正盛から清盛に至る間に熊野水軍や瀬戸内の海賊,九州の松浦党(まつらとう)などを配下におさめ,水路を開き,日宋貿易を盛んに行うなど,平氏の政治的・経済的・軍事的行動は基本的には海上掌握を基盤としてくりひろげられたのである。

 伊勢および伊賀が平氏にとって特別な地であったことは,平氏滅亡後も同地で数度にわたり残党の反乱が起こったことからもうかがえる。かかる状況に対処するため鎌倉幕府は1184年(元暦1)には大内惟義(これよし)に伊賀の国務をとらせ実質的には守護としての役割も果たさせた。伊勢に関しては明らかでないが平氏の本拠地であることを考えれば,同じころより大内惟義もしくは惟義ののち伊賀・伊勢両国の守護となった首藤経俊が政務をとったのではないかと推測される。1204年(元久1)平氏残党による反乱(三日平氏の乱)で経俊が逃亡すると,幕府は反乱鎮圧に功のあった平賀朝雅を伊勢・伊賀両国の守護とした。しかしこの朝雅も翌年将軍職をめぐる幕府内紛(牧氏の変)で誅殺され,両国守護は惟義の子惟信に与えられた。惟信が承久の乱(1221)で京方につき誅されてからは北条氏が伊勢守護となり,鎌倉末期には北条氏一門の金沢(かねさわ)氏が守護職にあった。この間源頼朝をはじめ伊勢神宮に所領を寄進する者が多く,神宮は経済的最盛期を迎える。しかし荘園領主・地頭間の対立抗争が絶えず,その中から名主土豪が成長して,神宮,寺社など荘園領主の権益はしだいに衰退した。この傾向は鎌倉末期より強まり南北朝期には決定的となる。

 鎌倉幕府滅亡後,伊勢守護は畠山,高,仁木,石塔,土岐,細川,山名の各氏によってうけ継がれた。しかし南北朝の動乱の中では守護の権限が一国全体に行きわたるというのは困難であった。伊勢においても守護すなわち幕府側の勢力範囲は主として北部に限られ,雲出(くもず)川以南の一志,飯高,飯野,多気,度会各郡の南伊勢は南朝方の北畠氏によって掌握されていた。北畠氏が南伊勢に進出したのは当時大湊(おおみなと)が軍事上とくに重要であったことと関連すると思われる。伊勢の港湾としては桑名,長太(ながほ),若松,安濃津,大湊などがあげられるが,伊勢神宮への崇敬が高まるとともにその供祭物の積入港である大湊がとくに発展した。北畠氏が南伊勢に進出して大湊を押さえたことにより,南朝側は各地の勢力と連絡を密にすることができた。また南伊勢の土豪愛洲(あいず)氏を味方につけたことで,熊野水軍を傘下におさめ紀伊南岸の海上権をも掌握することができた。このころ伊勢神宮内部も南北両朝に分かれたが,外宮の神官度会家行は南朝を支持し,その神道思想は北畠親房に多大な影響を与えた。親房の《神皇正統記》にはその影響が明瞭に見られる。

 1392年(元中9・明徳3)の南北朝合一後も北畠氏と幕府との対立は続き,親房の曾孫満雅は後亀山天皇の孫小倉宮を奉じて挙兵し戦死した。これを機に北畠氏はようやく室町幕府に恭順することとなる。この間,在地においては郷村制が進展し政治的,経済的に新体制が誕生していた。すでに鎌倉中期には伊勢に惣結合が生まれていたが,室町期に入りこの傾向はいっそう強まり,各地に宮座なども形成された。とくに著しい発展を見せたのは宇治,山田で,鎌倉以来強まった伊勢信仰の影響で神宮の門前町として繁栄した。しかもそれは単に経済的伸張にとどまらず,政治的にも町の年寄が実権を掌握し町自治体を形成するに至った。その中心になったのは御師(おし)といわれる人々である。御師とは御祈禱師(おんきとうし)の略で,神宮の下級神官が参宮者の依頼をうけて祈禱を行ったことからこの呼称が生まれた。荒木田,度会といった上級神官を神人(じにん)というのに対し,彼らは神役人(じんやくにん)と呼ばれた。御師の年寄は宇治の宇治会合,山田の三方(さんぽう)会合の実権を掌握して町自治体を統轄した。また彼らは御師団を形成して武力を保有し,神人方と対立抗争を繰り返していたが,15世紀前半には神人方を破って支配権を確立,以後は付近に発達した村落自治体をも吸収して発展した。宇治,山田の繁栄にともない,その外港としての大湊の重要性もいっそう高まった。これに比べ神宮への供祭物の積出港として,また日明交易の基地として発達した安濃津は,1498年(明応7)の大地震によって壊滅し,港湾としての機能をほとんど失うに至った。一方,桑名は商業の中継地として栄えたほか,四日市なども港町として発達した。このように町自治体が確立されたころ,隣国尾張から織田信長の伊勢侵攻が始まる。信長は北伊勢の長野,関,神戸氏を帰属させたのち,長島の一向一揆(長島一揆)を破り,南伊勢へと進んで1576年(天正4)には北畠氏を滅ぼした。町自治体の中には信長配下によって一時占領されたところもあった。

 最後に中世における伊勢の産業としては伊勢湾の水産,沿岸の製塩,鎌倉末期より盛んな伊勢茶のほか,とくに著名なものとして多気郡丹生(にう)の水銀と射和(いざわ)の白粉があげられる。水銀は〈みずがね〉として古来有名で,すでに713年(和銅6)伊勢水銀が献じられたことが記録に残っている。鎌倉初期には早くも水銀座が形成され,水銀の産出は江戸初期まで続いた。またこの水銀を原料として射和では軽粉(けいふん)が作られ白粉として用いられた。伊勢白粉の製造は16世紀中葉に最も盛んとなったが,鉛を原料としないために珍重され,伊勢の特産物としてとくに有名であった。
執筆者:

織豊政権の時代,伊勢の支配関係は相争う多数の在地土豪を基盤に目まぐるしく移り変わったが,豊臣時代を概観すると,北勢の長島に福島正頼,桑名に石川数正,丹羽氏次,氏家行広亀山に関一政,岡本宗憲,中勢の奄芸郡上野に分部光嘉,安濃津(津)に富田知信,神戸(かんべ)に生駒一政,滝川雄利(かつとし),松坂(松阪)に蒲生氏郷,服部一忠,古田重勝,菰野(こもの)に土方雄久,井生に松浦久信,雲出に蒔田広定,竹原に山崎定勝,南勢の岩手に稲葉道通(みちとお)などが,知行高1万~7万石ほどの規模で配された。豊臣秀吉の大名配置は,それ以前の勢力関係を一変させたが,関ヶ原の戦に勝った徳川家康がまた大きな配置替えを行った。除封・廃藩になったのが井生・雲出・竹原の3藩,除封・新領主入封となったのが桑名(氏家氏→本多忠勝),亀山(岡本氏→関一政),神戸(滝川氏→一柳直盛)の3藩,加封が上野・松坂・津の3藩,長島藩は福島氏加増移封となって菅沼定仍が入封し,岩手藩は稲葉氏が加増移封となって廃藩,田丸藩が生まれた。

 その後も大名の入替えが進み,桑名,長島,神戸,亀山の家門・譜代藩では幾度も領主が交替した。これに比して,津藩では1608年(慶長13)に外様の藤堂高虎が入封して以後は藩主家が変わらず,その支藩として69年(寛文9)に誕生した外様の久居藩も変化なく,菰野藩も外様の土方氏が相続した。

 伊勢では以上の7藩が廃藩置県まで存続したが,外様の津,久居藩は,藩祖高虎が家康の信任を得て伊勢・伊賀22万石余(のち32万3950石)に封じられた家柄であるから,家門1,譜代3と合わせ,伊勢の大名配置は徳川将軍家の強固な補翼という性格をもった。江戸期のうちに廃絶になった藩もあって,林,田丸,松坂,上野,西条,八田と6藩に及んでいる。また,1619年(元和5)白子(しろこ),松坂,田丸の18万石が紀州藩領となった。これら大名領のほかに,南勢・北勢には若干の幕府直轄領があり,南勢に伊勢神宮領・金剛証寺領,中勢に大宝院領・専修寺領などの寺社領があった。また宇治と山田は,幕府が派遣する遠国奉行の一つである山田奉行の監視のもとにあったが,〈自治体〉領としての性格を維持した。

 伊勢の交通体系は陸路と海路によって成り立っていたが,最重要路は東海道であり,尾張熱田から海路(七里渡)で桑名に上陸,石薬師・亀山・坂ノ下など7宿を通って鈴鹿峠を越え,近江国土山へ抜けた。伊勢神宮へ向かう参宮街道(伊勢路)は参詣客の増加とともに発達したが,東海道の日永の追分(四日市)から分かれて津,松坂,山田とつなぐ街道のほか,東海道の関から分かれて江戸橋へ向かう伊勢別街道,大和から入る初瀬街道,紀伊から入る和歌山街道・熊野街道など幾通りもあった。津から伊賀へ通ずる道には長野越えがあり,北勢から近江へ通ずるには鞍掛峠,治田峠などがあった。海路は,伊勢十三浦といわれた四日市,若松,白子,津,大湊などの港湾を結んで発達した。河川交通は北勢の木曾,揖斐(いび),長良川で盛んだったが,中勢以南では平坦で便利な陸路に恵まれていたため,概して舟便の利用は少なかった。

 伊勢の産業は農業が中心であったが,伊勢湾岸に沿って漁村も多くあり,また西方に山脈があって林産も豊かであった。1594年(文禄3)に秀吉が伊勢国全体の検地を行い,13郡の総石高を56万石としたが,この太閤検地は農村の社会関係に大きな影響を与えるとともに,以後の農政の出発点となった。新田開発,用水整備が17世紀中葉に幾つかの藩で進められた。北勢の木曾,長良,揖斐3川流域には周囲に堤防を築いた輪中村落地帯があったが,ここでも17世紀に輪中新田が発展した。伊勢平野は商品性の高い伊勢米を産し,金肥施用が早くから広がり,伊勢三穂と呼ばれる新品種も生まれた。茶も伊勢茶の呼名を得,江戸への販路をもつ産地もあり,開港後は輸出茶として急増した。木綿は中世末から作間稼ぎとして織り出されたが,しだいに草綿栽培地が拡張し,対外的には松坂木綿(松坂縞)の名が知られた。ナタネの栽培も盛んで,灯火・食糧用種油が搾られ伊勢水と称された。タバコ,アイも生産された。

 林業は藩政のなかで重要な位置にあり,造林とともに薪炭,シイタケ,マツタケなどの産物についても専売制をしく藩があった。漁業では,内湾で河川が注ぐため魚介類に富んでおり,ことにヒシコイワシの漁獲が多かった。製塩も行われた。鉱業は,北勢に銀,銅の鉱脈があって採掘された。丹生の水銀は,初期には多量に産出して広く知られたが,やがて不振に陥った。温泉には恵まれず,湯ノ山,榊原,阿曾の3ヵ所しかなかった。工業では,鋳物・刀剣・鐔(つば)を産し,造船用の釘も製造された。陶器には四日市を中心とする万古(ばんこ)焼などがあり,漆器も桑名,山田で造られた。丹生の水銀を原料とする化粧用の軽粉や,製薬では万金丹が知られた。

 伊勢の都市は,城下町,宿場町,港町,門前町など多様であった。城下町としては長島,桑名,亀山,神戸,津,松坂,田丸,菰野(居館),久居(同)などがあったが,その多くは宿場町でもあり,桑名,津などは港町でもあった。松坂は早くに廃藩となり,紀州藩の城代が配されたが,市場,問屋などのある商業都市として発達し,工業の町でもあった。門前町には宇治,山田,一身田(寺内町)などがあったが,参宮客を相手に栄えた古市のような遊興の町もあった。

 伊勢の商人の中には,他国へも活動を拡大する者が多く,伊勢商人と呼ばれた。江戸初期には大湊から海運業者角屋(かどや)一家,度会郡から事業家河村瑞賢が出た。江戸に伊勢屋ののれんを掲げる店が多く現れ,近江商人とともに商業界で地歩を占めた。伊勢商人の代表的なものは,飯南郡出身の富山家,松坂の三井・長谷川・小津・長井・殿村・伊豆蔵(鈴木)家,津の田中・川喜田・中条家などで,伊勢木綿,松坂木綿の商いを契機に進出し,奉公人に対する独特の組織法,教育法によって江戸店(だな)を定着させた。

 文化的な面では,寺社に伊勢神宮,浄土真宗高田派本山専修寺があり,神宮へは多数の参詣者が訪れ,お蔭参りの群参,ええじゃないかの熱狂的参宮もみられた。教育,学問では,津藩の有造館など各藩に藩校が設けられ,庶民には心学が浸透した。学者には本居宣長,谷川士清(ことすが),橘守部,足代弘訓(あじろひろのり)らが出た。幕府の採薬使として活躍した野呂元丈も伊勢の人である。演劇では,神宮の膝元古市の歌舞伎芝居が田舎芝居の第一として知られ,初期には伊勢三座といわれる猿楽能もあった。また宇治山田の暦陰陽師が作成した伊勢暦は,全国的に広まり好評を得た。

 1871年(明治4)廃藩置県により,北勢に安濃津県(翌年,三重県と改称),南勢に度会県ができたが,76年両県が合併して今日の三重県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢国」の意味・わかりやすい解説

伊勢国
いせのくに

東海道の一国。三重県の東部にあたる旧国名。国名は国神(くにつかみ)の伊勢津彦(いせつひこ)の名による。古代では、神風の伊勢の国は常世(とこよ)の浪(なみ)の寄する国とも、傍国(かたくに)の可怜(うま)し国ともよばれ、大和(やまと)朝廷の外辺に位置し、かつ東国への窓口としての位置を占めていた。律令(りつりょう)制下では桑名(くわな)、員弁(いなべ)、朝明(あさけ)、三重(みえ)、鈴鹿(すずか)、河曲(かわわ)、奄芸(あむへ)、安濃(あの)、壱志(いちし)、飯高(いいだか)、飯野(いいの)、多気(たけ)、度会(わたらい)の13郡をもつ大国であった。なお、安濃郡は中世には安東、安西の2郡となった。郡の下の郷は94郷(『和名抄(わみょうしょう)』)を数えた。国府は鈴鹿市国府(こう)町に、国分寺は同市国分(こんぶ)町にあり、都への連絡は上り2日、下り1日とされた。度会郡宇治(うじ)郷(伊勢市)に伊勢神宮(内宮(ないくう))があり、その鎮座は垂仁(すいにん)天皇25年のこととされる。外宮(げくう)は同郡沼木(ぬき)郷(伊勢市)に雄略(ゆうりゃく)天皇のときに丹波(たんば)(京都府)から遷(うつ)されたと伝えられる。神宮に奉仕した斎宮(さいくう)は平常は多気郡にいた。度会、多気、飯野の3郡は神郡(しんぐん)で伊勢神宮の支配下にあり、これを神三郡(じんさんぐん)とよんだ。のち員弁、三重、安濃、朝明、飯高の5郡も神郡となり、あわせて神八郡(じんはちぐん)とよばれた。律令制の解体とともに多くの神宮領の御厨(みくりや)・御園(みその)が成立し、また大国荘(おおくにのしょう)(東寺領)、川合(かわい)荘(東寺領)、曽禰(そね)荘(醍醐(だいご)寺領)などの荘園が成立した。10世紀の末には伊勢平氏が安濃津、桑名、富津などの地を根拠に発展した。

 12世紀の源平の争乱にあたっては、平家側の拠点として源氏への対抗が続いた。鎌倉幕府は守護に山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし)、平賀朝雅(ひらがともまさ)、大内惟義(これよし)らを任じ、北条時房(ときふさ)以後は北条氏の一門がその地位を独占した。また地頭には島津忠久、畠山重忠(はたけやましげただ)、渋谷定心らの名前をみることができる。13世紀末から14世紀にかけ在地領主は力を蓄え悪党として活動し、伊勢の社会体制も揺らいだ。こうしたときに南北両朝の対立が起こり、南伊勢の神宮の祠官(しかん)の勢力を頼んで南朝側の北畠親房(きたばたけちかふさ)は宗良(むねなが)親王とともに伊勢に下向し、南伊勢を中心に北朝側と対立した。南北両朝の合一後も北畠氏は伊勢国司として独自の地位を保ち、しばしば室町幕府と対立しながらも、1569年(永禄12)に織田信長に居城大河内(おおこうち)城を攻め落とされるまで、南伊勢を中心にその支配を続けた。信長は1574年(天正2)、長島(ながしま)にこもる一向一揆(いっこういっき)を三度目の攻撃でようやく滅ぼし、伊勢国全体を手中に収めた。信長の跡を襲った豊臣(とよとみ)秀吉は北伊勢の長島城に甥(おい)秀次(ひでつぐ)、南伊勢松ヶ島に蒲生氏郷(がもううじさと)、安濃郡に富田知信(とみたとものぶ)を配し、信長色を一掃し、検地を実施した。大名の移動は徳川政権下も続いた。桑名藩には本多忠勝(ただかつ)が1601年(慶長6)に入ったが、移封がしばしばなされ、幕末まで藩主は5回変わった。これに対し津(つ)藩は1608年(慶長13)に藤堂高虎(とうどうたかとら)が入国して以来、幕末まで変わらなかった。このほか、菰野(こもの)、神戸(かんべ)、長島、亀山、久居(ひさい)の各藩と紀州徳川家領があり、山田には山田奉行(ぶぎょう)が置かれた。明治に入り神宮領が度会県に、各藩はそれぞれ県となり、1871年(明治4)に南伊勢の度会県と北伊勢の安濃津県(翌年三重県と改称)にまとめられ、1876年に両県は合併し三重県となり、県庁は津に置かれた。産物では近世に伊勢白粉(おしろい)、白子(しろこ)の伊勢型紙(かたがみ)、松坂木綿が知られていた。また三井に代表される伊勢商人の活動は全国に及び、近世初頭の大湊(おおみなと)の角屋(かどや)は海外に活躍した。国学者本居宣長(もとおりのりなが)は松坂の出身であった。伊勢参りで伊勢の地にきた人の数は多く、伊勢の名を全国に知らせることにもなった。

[西垣晴次]

『西垣晴次他著『三重県の歴史』(1974・山川出版社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「伊勢国」の解説

いせのくに【伊勢国】

東部の志摩(しま)と西部の伊賀(いが)を除く三重県の大半を占めた旧国名。古くは伊勢国造(いせのくにのみやつこ)が支配、伊勢神宮の鎮座地として開け、神領が多かった。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府鈴鹿(すずか)市国府(こう)町、国分寺は同市国分(こくぶ)町におかれていた。平安時代末期に平氏(へいし)の拠点となり、鎌倉時代には山内氏、平賀氏、大内氏守護となり、南北朝時代になると北畠(きたばたけ)氏が南朝の拠点を確立、その後も勢力をはった。戦国時代に在地武士や一向宗徒(一向一揆)を織田信長(おだのぶなが)が平定。江戸時代、幕府は山田奉行のほか7藩をおき、幕末に至った。江戸時代には、のちに三井財閥となる三井高利(たかとし)を祖とする三井家のような伊勢商人が活躍した。1871年(明治4)の廃藩置県により度会(わたらい)県と安濃津(あのつ)県が成立、1872年(明治5)に安濃津県は三重県と改称、1876年(明治9)に度会県を併合して現在の三重県となった。◇勢州(せいしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊勢国」の意味・わかりやすい解説

伊勢国
いせのくに

現在の三重県の大半。東海道の一国。大国。もと伊勢国造および度会 (わたらひ) などの県主があった。初め伊賀国,志摩国を合せていたが,天武8 (679) 年に分国。伊勢神宮鎮座のため行政上でも特殊な立場にあった。国府は鈴鹿市国府町,国分寺は同市国分町。『延喜式』には桑名 (くはな) ,員弁 (ゐなべ) ,朝明,三重,鈴鹿,河曲 (かはわ) ,奄芸 (あんき) ,安濃 (あの) ,壱志 (いちし) ,飯高,飯野,多気,度会の 13郡があり,『和名抄』には郷 94,田1万 8130町余が記載されている。式内社の 253社は一国としては最も多く,神郡,神領も多かった。平貞盛の子維衡は寛弘年間 (1004~12) に伊勢守,その子孫正盛,忠盛も伊勢守となり,伊勢平氏としてこの地に勢力を張った。平清盛は忠盛の子として活躍。鎌倉時代には山内氏,平賀氏に続いて北条氏の一族金沢氏が守護となり,南北朝時代には北畠氏が南朝の側に立ち,室町時代には北畠氏は国司として,また守護には仁木氏,土岐氏があたった。戦国時代は群豪が割拠したが,織田信長が平定。江戸時代に入って慶長 13 (1608) 年,藤堂高虎が入国したが,幕府は山田奉行を設置し,神宮所在の山田を直轄地として支配した。藤堂氏の津藩のほかには本多氏の神戸藩,増山氏の長島藩,土方氏の菰野藩,松平氏の桑名藩,石川氏の亀山藩,藤堂氏の久居藩があった。明治4 (1871) 年の廃藩置県により,7月各藩はそのまま県となったところが多かったが,同年 11月,度会県と安濃津県に分れ,1876年合併して三重県となる。

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百科事典マイペディア 「伊勢国」の意味・わかりやすい解説

伊勢国【いせのくに】

旧国名。勢州とも。東海道の一国。現在三重県の大半。《延喜式》に大国,13郡。古くから伊勢神宮の所領があり,古代末期以後,平・大内・平賀・仁木(にっき)・土岐氏らが領有,南北朝期には北畠氏の勢力下にあったが,近世初期藤堂氏の支配に属して明治に至る。→津藩桑名藩
→関連項目近畿地方曾禰荘保内商人三重[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊勢国」の解説

伊勢国
いせのくに

東海道の国。現在の三重県の大半。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では桑名・員弁(いなべ)・朝明(あさけ)・三重・鈴鹿・河曲(かわわ)・奄芸(あんぎ)・安濃(あの)・壱志(いちし)・飯高(いいたか)・飯野・多気(たき)・度会(わたらい)の13郡からなる。「伊勢国風土記」逸文に伊勢津彦が国を神武天皇に献上し,天皇がその名をとって国名としたという由来をのせる。古くは伊賀国・志摩国と一体であった。国府は鈴鹿郡(現,鈴鹿市),国分寺・国分尼寺は河曲郡(現,鈴鹿市)におかれた。一宮は椿大社(現,鈴鹿市)。三関の一つである鈴鹿関は鈴鹿郡(現,亀山市関町)におかれた。「和名抄」所載田数は1万8130町余。「延喜式」に調庸として綾・絹・糸・塩など,中男作物として紙・木綿・海産物などを定める。伊勢神宮があるため,度会郡などの神郡(しんぐん)や神領が多く,平安中期には員弁郡などをあわせ神八郡(しんはちぐん)と称した。平安末期には伊勢平氏の拠点。鎌倉時代には大内・北条氏らが守護となり,南北朝期には北畠氏が南伊勢に進出し,以後国司として続いた。近世には多くの大名領・幕領となる。1871年(明治4)の廃藩置県により北に安濃津(あのつ)県,南に度会県が成立,72年安濃津県を三重県と改称,76年両県が合併して三重県となる。

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世界大百科事典(旧版)内の伊勢国の言及

【水銀座】より

…中世,伊勢国飯高郡丹生(現,三重県多気郡勢和村)産出水銀の特権的な取引に従事した商人団。水銀とその原鉱辰砂は医薬品用,顔料白粉原料等として用途が広く,すでに文武・元明天皇のころから伊勢産水銀の貢納が行われていた。…

※「伊勢国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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