塚谷村(読み)つかだにむら

日本歴史地名大系 「塚谷村」の解説

塚谷村
つかだにむら

[現在地名]鏡野町塚谷

東は下森原しももりばら村・馬場ばば村、南はいり村、西は久田下原くたしものはら(現奥津町)に接し、南端の一部が吉井川の左岸にかかる。正保郷帳に高一九九石余、うち田方一二六石余・畑方七三石余とある。「作陽誌」では家数三七・人数一九一で、弥須弥に堤坡がある。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一八六石余、開高九石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では四〇二石余。領主の変遷は貞永寺ていえいじ村に同じ。

戦国期に塚谷鍛冶と称する刀鍛冶集団の居住が伝えられ、腕を競う二人の刀工の伝説が残る。「作陽誌」によれば、志毛夫良しもふら山の南麓のひさげ淵に住む鍛冶の岩端に向かって、ほかの小鍛冶が岩端の鍛えた刀は利刀にあらずと誹謗したので、怒った岩端は志毛夫良山に駆登り、自分の鍛えた刀で大石を両断したという。


塚谷村
つかたにむら

[現在地名]山中町塚谷町・上野町うえのまち

山中村の北に位置し,集落大聖寺だいしようじ川と山中道の間にあるが,村域は南北に細長く、南は水無みずなし山に及ぶ。「長家譜」に、建久年間(一一九〇―九九)加賀の逆徒を平定した軍功をもって長谷部信連が塚谷の地を得、娘は塚谷の関七郎なる者の妻となったとある。信連の屋敷跡は村東部のまる山の辺りといわれ、「江沼志稿」にも図示されている。付近に信連のぶつら滝・長谷部はせべ清水などがあり、伝承とはいえ、長谷部氏となんらかのかかわりがあったとみられる。正保郷帳によると高二九六石余、田方四町六反余・畑方一八町余、物成高一四三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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