塩入村(読み)しおいりむら

日本歴史地名大系 「塩入村」の解説

塩入村
しおいりむら

[現在地名]仲南町塩入

阿讃山地の中央にそびえる大川だいせん山北方の山地と、塩入川の上流域に位置する。塩入川は東山ひがしやま峠付近に源を発し、釜が淵かまがぶちを経て野口のぐちダムまで北流して財田さいた川となる。瀬戸内海沿岸の塩が当地を経て阿波国に入ったから塩入といい、当地域からウニなどの海棲動物の化石が出るので、大昔は海であって潮が入っていたので潮入ともいう。現琴南ことなみ町・満濃まんのう町との境界点である三頭みつがしら(標高七五三・六メートル)付近で、平安末から鎌倉期にかけての密教系寺院中寺なかでら遺跡が発掘調査された。

文禄五年(一五九六)八月六日の生駒一正宛行状(山崎家文書)で、塩入村の九六石余が山崎治左衛門に与えられた。寛永国絵図では七ヶ村に属する。


塩入村
しおいりむら

[現在地名]富浦町豊岡とよおか

坂之下さかのした村の南に位置し、西は海(浦賀水道)に面する。汐入村とも書いた。幕府へ提出した郷帳では元禄郷帳に初めて村名がみえ、高三一石余。ただし享保七年(一七二二)坂之下村岡本おかもと村の争論文書(三浦家文書)には、「六拾ケ年以前地頭小浜平左衛門一領一村の節」、塩入村二五〇石余のうち海石一〇石余を割いて坂之下村を立て、岡方と浜方を分離したとある。これによると寛文二年(一六六二)以前から独立村として存在していたようであるが、確かではない。なお村高は天保郷帳などでも二九石余に過ぎず、二五〇石余という数値は不審である。領主変遷は嘉永六年(一八五三)幕府領備前岡山藩預地となるまでは南無谷なむや村に同じ。


塩入村
しおいりむら

[現在地名]矢本町大塩おおしお

大窪おおくぼ村の西にある小村で東は赤井あかい村。気仙けせん道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田四八貫一一五文・畑四貫六三六文で、ほかに新田一貫八〇一文。「安永風土記」によると田四九貫九一八文・畑五貫二〇文、蔵人四貫九四文でほかは給所。人頭三八人、寛永一八年(一六四一)検地時の竿答百姓二〇人。谷地に位置するため村高の変化は少ない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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