大宮八幡神社
おおみやはちまんじんじや
[現在地名]三木町池戸 鍋渕
新川の右岸にある。祭神は応神天皇など八幡三神。旧村社。元慶年間(八七七―八八五)に聖宝(理源大師)の創建というが証拠はない。永正年間(一五〇四―二一)池戸城主山地志摩が社殿を修築したと伝える。「讃岐国名勝図会」によれば、天正年中(一五七三―九二)兵火にかかり、慶長七年(一六〇二)松原万助義成が生駒家に申請して再興したとする。
大宮八幡神社
おおみやはちまんじんじや
[現在地名]勝浦町星谷
宮原に鎮座。旧郷社。主祭神は誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・竹内宿禰命。創建年代は未詳ながら、文応二年(一二六一)源時尼、文明年間(一四六九―八七)に大栗政吉、天文八年(一五三九)源俊平によりそれぞれ造営・修造が行われ、慶長一〇年(一六〇五)に蜂須賀家から修復が命じられたという(阿波志)。大栗氏は沼江を拠点とする者とされるが、当社の数次の再建は勝浦川舟運と無関係ではないと考えられる。
大宮八幡神社
おおみやはちまんじんじや
[現在地名]砥部町大南
祭神は品陀和気命・帯長津彦命・息長帯姫命の三柱。旧郷社。
貞観年中(八五九―八七七)宇佐八幡から勧請。世々国司の尊崇厚く、とくに河野氏から崇敬され、代々神田の寄進、社殿の造営が行われたと伝える。大森盛長が砥部郷千里山の城主となると当社を祈願所とし、社殿を再興し奉納物などがあって累代崇敬されたともいう。文明一一年(一四七九)大森氏に代わり平岡光山道則が入城後、氏神として崇敬し、その孫平岡大和守道重も宮殿を再興するなど、平岡氏代々の祈願所として栄えたという。
大宮八幡神社
おおみやはちまんじんじや
[現在地名]佐那河内村下
高樋の園瀬川北岸にある。旧郷社。主祭神は八幡大神・足仲彦天皇・姫大神・高良大明神・息長帯姫命・大鷦鷯尊。和銅元年(七〇八)豊前宇佐宮より勧請と伝えるが不詳。嘉慶二年(一三八八)細川頼之が楽器を納めたと伝え(阿波志)、細川氏歴代、さらに三好氏にも崇敬されたといわれる。
大宮八幡神社
おおみやはちまんじんじや
[現在地名]松山市上野町 今市
上野町の北方の平坦部、今市にある。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇。旧郷社。社伝によると、初め神明宮といい、さらに宇佐八幡神を勧請して大宮八幡と改称したという。
この社には、衣更の神事が古くから執行された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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