坂之下村(読み)さかのしたむら

日本歴史地名大系 「坂之下村」の解説

坂之下村
さかのしたむら

[現在地名]富浦町豊岡とよおか

南無谷なむや村の南に位置し、南に塩入しおいり村が続く。西は海(浦賀水道)に面する漁村。江戸時代中期までの郷帳類には村名がみえず、元禄郷帳に「塩入村之枝郷」の注記つきで坂之下浦とある。高一四石九斗余。宝永二年(一七〇五)の坂之下浦水帳(三浦家文書)によると海石高一〇石七斗余で、この運上金一四両二分余。ほかに屋敷・舟引場一一ヵ所(二反余)に対する永が七五文。この水帳には南無谷村・はら村・岡本おかもと浦の各一名が署判しており、宛先は坂之下浦惣兵衛となっている。おそらく当時はこの三村が共同で坂之下浦の年貢(運上金)納入等の責任を負っていたものと思われる。この時は南無谷村と同じく旗本小浜領で、以後嘉永六年(一八五三)に備前岡山藩預地となるまで同村と同じ変遷をたどる。旧高旧領取調帳では船形藩領。当村の成立については、享保七年(一七二二)岡本村との漁場争論文書(三浦家文書)に「六拾ケ年以前地頭小浜平左衛門一領一村の節、塩入村弐百五拾石余の地尻の海石拾石七斗五升残らず坂下え相分ち、岡と浜とニ罷成候」とある。同年の争論は岡本村との磯境をめぐるもので、岡本村の浜百姓が磯に仕掛けた鰍網を当村の者が理不尽に取上げ、奪い取ったとして訴えられている。この訴訟に対する裁許は従来から入会ってきた外海は別として、「坂之下村之内海は地頭之留浦」であり、したがって「自今坂之下村留浦之内え岡本村堅不可入会」という当村の主張を全面的に認めるものであった。


坂之下村
さかのしたむら

[現在地名]鎌倉市さかした長谷はせ二丁目・極楽寺ごくらくじ一丁目

極楽寺坂ごくらくじざか切通の東、霊山りようぜん山の東麓、由比ゆいガ浜に沿う村で、北東は長谷村、西は極楽寺村に接する。極楽寺坂の下に位置するので、その名が起こったらしい。「忍性菩薩行状略頌」には、永仁六年(一二九八)に「建立坂下馬病屋」とあり、元徳元年(一三二九)作という極楽寺縁起にも「構厩於前浜坂ノ下村之前也而飼養老病之牛馬」と記しているから、この頃にはすでに坂ノ下の地名があった。

近世は幕府直轄領。江戸初期の十二所村等鎌倉中幕領寺社領相給村総高帳(県史六)には「一永壱貫三百文 坂下舟役」と記すが、正保国絵図には村名がない。


坂之下村
さかのしたむら

[現在地名]上野市坂之下

外山とやま村の西。南に柘植つげ川が流れる。川の西南約一・五キロにつじしお木舟きぶねなどの飛地があり、木舟は古代国府所在地の推定地の一部である(→印代村。当村の地籍の一番地はここから始まるが、なぜこの平坦地に飛地を有するかは明らかでない。北の木津きづ川断層崖の急坂に中世は楽音がくおん寺があった。

享保八年(一七二三)居検地を改め、本高二一三・八三八石、平高四三三・四五石、うち七一石余は堀伊織の給地。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三四、人口一一一、牛九、社寺は牛頭ごず、稲荷・津島つしま天王合祀、国分こくぶん(宗国史)。「三国地志」には、稲荷祠は恵那志森と称し、森は田となるとあり、加太越奈良道分間延絵図(東京国立博物館蔵)はこの位置に牛頭天王を描く。


坂之下村
さかのしたむら

[現在地名]矢島町坂之下

子吉こよし川上流東岸にあり、東は雄勝おがち軽井沢かるいさわ(現羽後町)、北はたいもり村と新荘しんじよう村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)坂下村とあり、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)には一五〇石六斗四升八合で、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒主殿同権之助知行高辻帳(秋田県庁蔵)にも同高とある。宝暦六年(一七五六)の御領分中覚書(矢島町史)には本田三八九石八斗一升二合、新田三九石五升で、家数五五軒、人数二六三人とあり、この数字は平ヶ森村を含むと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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