塩浜村
しおはまむら
[現在地名]四日市市塩浜本町一―三丁目・塩浜・塩浜町・宮東町・中里町・小浜町・柳町・御薗町・川合町・大池町
鈴鹿川の河口北岸に位置し、東は伊勢湾、西は川尻村。寛延二年(一七四九)以降、海岸部に辰巳新田が成立。「神鳳鈔」に「外宮塩浜御薗塩五斗」と出る。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写では、一石五斗となっており、この頃まで神宮領であったことが知られる。江戸時代は初め幕府領、宝永六年(一七〇九)長島藩領、享和元年(一八〇一)以降再び幕府領で信楽(現滋賀県)代官所支配との変遷が考えられる。
塩浜村
しおはまむら
[現在地名]加賀市塩浜町
千崎村・大畠村の東にあり、北は日本海に面する。地名はむかし塩を製造していたことを示すものといい(加賀志徴)、「江沼志稿」には「此領田地稲田一枚々ニ井戸ヲ掘置、旱魃ニ水灌漑ス、中古迄塩竈有、天明ノ頃廃」と記す。天文九年(一五四〇)分の北野社領山田・菅波算用状(天文九年記)に「塩浜向衛門」の名がみえる。
塩浜村
しおはまむら
[現在地名]西淡町松帆塩浜
北方村の南、三原川北岸の低平地に立地する。松帆高屋の八幡神社(通称塩竈八幡神社)の天文一三年(一五四四)銘の棟札に「此度再建塩浜高屋脇田三ケ□」と記されていたという(兵庫県神社誌)。寛永四年(一六二七)の塩浜村検地帳(三宅家文書)では田畠一八町余・高二三九石余、脇田村など隣村からの出作人が多い。正保国絵図では高一四二石余。天保郷帳では高一六一石余。反別戸数取調書では反別一四町一反余、高二〇二石余、うち蔵入地高八六石余、一一五石余は斎藤八兵衛ら四人の給知。
塩浜村
しおはまむら
[現在地名]東区塩浜一―三丁目・和白五―六丁目・奈多一丁目など
裏粕屋郡に所属。上和白村の西、海の中道の付根付近に位置し、博多湾に臨む。もとは下和白村・三苫村の内で、寛文元年(一六六一)に新田として村立てされたという(続風土記附録)。塩焼は元禄一六年(一七〇三)福岡藩士大野忠右衛門貞勝が藩費で海浜に塩浜を三〇町開き、塩竈・塩屋を立てたことに始まる(続風土記)。別本「続風土記附録」では寛政期(一七八九―一八〇一)の家数四二・人数一七〇、牛二五。塩浜は五町二反(続風土記附録)。産神は香椎宮(同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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